道元はあらゆる所作まで細々と規定して「悟りを開いた偉い坊さんだって歯みがきをおろそかにしてて、口を開いて説教したら口臭がひどいなんてことになったら艶消しだぜ。だからこうやって歯をみがけ」みてえなところまであるらしく、師匠が馬を見て「鹿だ」と言ったら、ある意味、弟子も「鹿です」と言うところのものだという。高い木の枝の先に口でぶらさがってて、そこで道を説けって。
親鸞は弟子に「お前、今から千人殺してこい」って言って、弟子が「私の器量では一人も殺せません」といったら、「やっぱりほら、それが宿業じゃないから殺せないわけだ。人間の為しうる善悪なんてこれっぽっちもないんだ。羊の毛の先の埃みてえな罪の一つ一つもぜんぶ宿業だ。だから、逆に百人千人殺しちゃうこともあるわけ」って言ったとか。
禅では同じことをした小僧に、一人はよく一人はまるでなってないとか、そういう公案みてえなのがあって。
百人千人殺しちゃうこともあるわけってのは、理趣経で男女交接をすげえ肯定的にとっているから、他に見られたらやばいよなってのがあったけど、あれ以上かもいしれない。だから歎異抄のラストに、仲間以外に見せんなよって書いてあるのかな。
鈴木大拙は宗教から倫理は出てこないっていってたけど、「おのづから」の行いをよく言ってたように思う。親鸞の絶対他力の信仰では、人間の為しうる善のはからいですら、進んで、自力で悪行を為すのと同じく、遠くなるぜってことらしい。妙好人はあまりにも無防備すぎて、そればかりでは社会が成り立たないというのは、鈴木大拙も言ってたっけ。真言密教や天台密教を一般人がどう信仰するのかよくわからない。浄土真宗については、何が信か何が不信かそのいきつくところをどう見るか。