お笑いについて語るときに我々の語ること、あるいはNON STYLEのM-1優勝について

 「2008年度 この映画はいったい誰が観に行くんだ!?大賞」というページを読みました。かなりの分量でした。かなりの分量でしたが、笑いながら、ひじょうに楽しく読んだ。私は映画館で映画を年に二本見るくらいの人間ですが、これはなんとも楽しめた。それで私は「同じ分量のポジティブなランキングは読む気にならないだろうと思った」とブックマークにメモしました。駄作映画を語るときに誰かの語る言葉はおもしろい。かがやける悪態が躍動している。
 ひるがえって、お笑いです。M-1グランプリ2008が昨夜放送されました。日本全国津々浦々のお茶の間でにわかお茶の間批評家が生まれ、私もその例に漏れない。いちいちケータイでくにくに打ち込んで、できるだけそのときの感想をアップしようとしたりしました。だからなんだという話ではないのだけれども、なんとなくそうしたかった。また、多くの人がそのように思いの丈を打ち込んで、ネットに流れるわけです。それを読んで思ったのです、「お笑いを酷評することをおもしろさに転化することは難しいのかな」と。

 すべったのをその場で笑いに転化することは、スベリ芸として認知されるくらい当たり前のことなのですが、どうもそれを離れてしまうともう難しい。珍芸や超個性派をおもしろおかしく紹介できることはあるかもしれない(ハリウッドザコシショウを紹介する伊集院光の語りなど)けれども、たとえば、その、ちょっと例を挙げるのは気が引けるけど、昨日のキングコングをおもしろくdisるのは無理だ(え? ザ・パンチ? ザ・パンチはおもしろかったよ!)。その違いです。いや、スシ王子や徳市が珍芸という可能性もあるが。
 どうも、笑いを否定するというのは、かなり大きな否定のように思えます。否定というと、きついかもしれないけれど、「おもしろくなかった」、「笑えなかった」というのは、かなりの威力を持った否定に思えます。全面的にアウトだぜっていう、そういう彼我の価値観の対立表明、それに近いもののように思えます。映画のようにさまざまの要素を含んだものと比べ、お笑いはあまりにも単一的なのでしょうか?
 いや、もちろん技術の巧拙を論じることは可能でしょう。笑いの手数をカウントすることもできるかもしれない。伏線とその回収を数えることだってできる。それによって漫才師の優劣を論じることはできます。しかし、できたところでなんだってんだ、というところも残ります。島田紳助が「好みの差」といったことを言いましたが、やはり究極的にはそこのところ、どれだけそいつが笑えたか、というところに帰結していい話だと思います。ただ、一人の好みの差では、「漫才日本一」という冠が成り立たない。それで、まああまりしがらみのない(という建前の。現実は知らない)大物が、そのセンスを以て七人、あそこに並んで評価する、と。それでまあ、その日面白いやつを選ぼうというわけです。
 ……と、なんとも回りくどくくどくど書くのも飽きたので、単刀直入に書きますが、NON STYLEの優勝にびっくりした。というのも、今までのM-1優勝者を眺めるに、そのときどきで「こっちが優勝だったんじゃねえの?」というケースはあったかもしれないが、「こいつの優勝はないだろう」というコンビはいなかった。なんかネタの番組やっていて、そいつらが出ていたら、とりあえずチャンネルを合わせる、そういう人たちだという感じがある。自分の中では「信頼のM-1タイトル」だった。
 が、今回、それが崩れた。自分にとっては一番か二番に笑い量の少ない人が優勝してしまった。ここのところがモヤモヤとして残るので、なんとなく考えずにはおられない。考えたところでどうしようもないが、なんか自分がおおいにお笑いとずれてしまったというか、なんか掛け違ってしまったような、そんな気になった。もちろん、「M-1勝者が自分にとっておもしろい」というのは、たまたまの偶然だったかもしれない。そもそも、ネタ中の観客の笑い声と自分に差があった。酔っぱらっていてもそれは感じた。だいたい俺は、ザ・パンチおもしろかったと言っているような人間だ。しかし、たとえば技術ばかり評価されているようなことはないのだろうか、などと少し疑問に思わないでもない……。
 と、以上、映画でいえば年二本、競馬で言えば有馬記念日本ダービーだけ、くらいのお笑いへの距離感を持つ(だからこそ、しょうもないものが新鮮に見えたり、最近の潮流のようなものをわかっていないのかもしれない)自分の戯れ言です。どうぞご海容ください。おしまい。
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