芸人須弥山論叙説

goldhead2005-08-23

 昨晩のアメトークをご覧になったろうか。司会は雨上がり決死隊、ゲストは‘リアクション・ビッグ3’こと左から上島竜兵ダチョウ倶楽部)、出川哲朗山崎邦正であった。対談の内容は彼らのリアクション芸の回顧を中心とした芸能論であった。その内容は凄絶であった。上島は、団地からのバンジージャンプという企画において、住民の子どもに命綱を切られたことをきっかけに「殺す気か!」のギャグが産まれたといい、出川は企画で同性愛肛門姦に遭った際は、帰国後にそっと母からメンソレータムを渡されたという。司会の雨上がりとて無縁ではない。通天閣からスイカに模したボールが落とされ、それをキャッチするという企画。落ちてきたのは本物のスイカであり、地面と衝突した破片によって脚を切ったという。いずれもインスタレーション・アートの一歩向こう側に位置する、驚くべき芸の極北である。
 しかし、私が昨夜の番組で改めて考え直したのは山崎邦正であった。山崎邦正には「笑いの神」が降りるとよく言われる。なるほど、ダウンタウンガキの使いなどを見ていても、容易にその場面を目撃することができよう。では、「笑いの神」とはどこにいて、芸人とはどんな関係にあるのか。私はまず芸人の種類について考えてみたいと思う。最初に断っておくが、どの種類の芸人がより多くの笑いをもたらすかという話ではない。あくまでも「笑いの神」という偶然性から眺めた分類であって、実際の笑いはそれぞれが有機的に交わりあい、化学反応を起こすところに創造されうるのである。
 まず始めに想定すべきは、技の芸人である。叡知と技術によって支えられ、その多くは鍛錬可能な領域である。漫才で言えばツッコミを担う芸人だ。
 次に想定されるのは、ツッコミに対するボケ、天然の存在だ。天然は持って生まれた「フラ」を武器とし、その素朴さが時に突飛な行動となって笑いに繋がる。
 そして、最後に想定すべきが「笑いの神」のよりしろとしての芸人。すなわち、山崎邦正が位置するところの芸人である。彼らは技芸たる芸において鍛錬が見られず、天然としての素朴さにも欠ける。しかし、突発的なアクシデント、時機を得て「笑いの神」を降臨せしめ、自らをそのよりしろとする。
 私はここでいささかトポフィジックな見立てをしてみたい。中央に大きな山が聳える。これが「笑いの神」が立ち寄る山である。山中には神と交感するよりしろとしての芸人、巫女や預言者としての芸人が住む。そして、山の裾野に広がる森の自然の中に、天然のボケ芸人が住む。彼らは自然の存在である。最後に、その森を取り囲むように都市が広がる。都市に住むのは技芸型の芸人である。
 ここで注意したいのは、「笑いの神」は山頂のみに降り立つわけではないということだ。ときに都市の住人までも機会を与える。そして、それを引き起こすのは、昨夜の対談の中に現れたような極限状態ではなかろうか。いかに理知的なツッコミ芸人といえども、爆発物入りのリュックを背負ったらどうなるか? そこに笑いの神は降りやすくなる。逆に言えば、山に住む芸人たちは、日頃からこのような苦行、極限状態を数多くこなすことによって、「笑いの神」との交感がしやすくなっているのである。
 さて、ビッグ3は多少の嘆きを以て現在の若手芸人のあり方を嘆いていた。あまり脱がない、すなわち恥辱による極限を味わっていないという。それはテレビ・メディアの現実的な規定がもたらすところも多いだろう。しかし、これによって多くの若手芸人が「笑いの神」との遭遇を逃している可能性もある。今この時代こそ、神を呼び寄せる祭りの場としての「ビートたけしお笑いウルトラクイズ」が求められているのではないか。そう、このお笑いブームの中にあってそのDVD(ASIN:B000AZ6LT4)が発売されることは、一種の必然なのである。