笑うということはそこに行き着くしかないのか?

 

連休の時間を利用して、ドキュメンタル・シーズン4を見た。今回こそは、と思った。いい具合に「お笑い」のボケ・ツッコミの応酬によって決まるのではないかと思った。

が、その予感は見事に外れた。より下半身のネタに走ってしまった。千鳥の(全裸とはいえ)の漫才では芸人たちを笑わせることができなかった。それよりも、失禁するほうが笑いをとれた。

おれにとっては、いずれにせよ可笑しい。しかし、それでいいのか、という気はする。そういうものなのか、という気はする。

年末の東スポで、ビートたけしが「松居一代のような天然には、いくら芸を磨いてもかなわない」というようなことを述べていた。磨かれた芸よりも天然。あるいは、裸の身体という天然。

おれは、そこに目が行き過ぎているかもしれない。とはいえ、おれは磨かれた芸の威力を信じたいというというところがある。おれは、各人のそれがぶつかりあうところが見たい。そうでなければ、磨かれた芸で笑っているおれは馬鹿みたいじゃないかと思うのだ。イカ二貫、そこで笑ってほしい。

ダウンダウンの「笑ってはいけない」にしたってそうだ。結局は下ネタなのか? あるいは、ミンストレル・ショーなのか? もちろん、おれはそれにも笑えてしまう。しかし、一発の磨かれた芸で、皆が笑ってしまう、そういう瞬間が見てみたい。だから、おれは「ドキュメンタル」を見続けるだろう。