ヘイトスピーチは法によって規制されるべきかどうか問題について

去年12月ごろのこと

 さいきん色々とヘイトスピーチに関するあれこれを見るようになった。自分も少し興味がある。俺は法律や社会のこと、いろいろのことはよくしらないが、表現や言葉と政治のせめぎ合いというか、表現の自由というか自由な表現というか、ある種の境界線のようなところにひかれたのだ。気にし始めたのはちょっと前、去年の十二月のことだ。

ヘイトスピーチ規制は市民が弱者を傷つけるのを抑止するために自らの手足を敢えて縛る行為だ。強者たる国家が弱者たる市民の手足を縛る昔ながらの言論統制とは趣旨が全く逆なのだ。

Re:日本でヘイトスピーチが規制される可能性 - 児童小銃

 こちらの書き込みを読んだのが最初だったか、少なくともブクマではそうだった。この箇所にいたるなにかのやりとりや議論などはよくわからない。この部分が気になった。なるほど、そういう考え方があるのか、と。ヘイトスピーチ(規制)というものは、そういう意味合いか、と。その程度だ。しかし、疑問もあった。そこで俺はこう疑問に思った。

規制が法という形をとっても、それはそうなのだろうか。

 ようわからんが、法となったら、それを定め、運用するのは、強者たる国家になっちゃうんじゃないかな、という疑問だ。もちろん、国が、きちんと民主的に運営されていれば問題はないが、往々にしてそうとばかりはいかんし、今そうでも将来どうなるかわからん、ような気もする。法じゃなきゃいけないのだろうか。
 それで、しばらくしたら、次のような文章を見た。

ここで一つ紹介。アメリカのコミュニタリアン、アミタイ・エツィオーニ(Amitai Etzioni)(Amitai Etzioni)は、ヘイトスピーチを許さない環境、出来ない雰囲気を作ることを「法的」にではなく作ることを推奨している。

上記のエントリを書く前に書いていたもの - 小烏丸の日記

 これまた、ここに至る議論や何もかもわからない。コミュニタリアンの意味も知らない。ましてや、アミタイさんのことを知るはずもない(網タイツなら知っている)。ただ、ヘイトスピーチという単語から辿り着いた(のだったかな? 時系列的にはずいぶん以前の記事だ)。それで、よくわからないが、日本に、それも俺のようなものがクリックして辿り着く範囲まで意見が届くような人が、すなわち、それなりの数の人間にその意見が参照されるであろう人が、「ヘイトスピーチを許さない環境、出来ない雰囲気を作ることを「法的」にではなく作ることを推奨している」というのであれば、最初に自分が感じた疑問というか、そういうものについては、まあ、なんというか、そこそこ的外れではないのかな、という気がした(このあたり、俺の中で「よい権威主義」と呼んでいる頭の働き、価値判断。もちろん、掛け金はこのように低い)。ヘイトスピーチなるものに反対的な立場を取る中にも、意見の分かれるところがあるのかもな、という感じで。
 ブクマの順番からいくと、次に読んだのはこのあたりのやりとり。

もちろん、私はヘイトスピーチ歴史修正主義が間違っていると考えますし、そのような意見に対して反論もすることでしょう。しかしながら、それはかかる意見を「徹底的に周縁化し、無害なものにする」ために行うのではありません。あくまでかかる意見を私が間違っていると考えるがゆえに反論する以上のものではありません。もちろん、結果的にそのような意見が退けられ「徹底的に周縁化し、無害なものに」なる可能性は十分に予見しえますが、それは目的ではなく、あくまで結果にすぎないものです。

革命的非モテ同盟跡地

 さらにはそれに対する次の意見の。

ヘイトスピーチが批判によって周縁化したとしてもそれはたまたまついてくる結果であるべきで、それゆえヘイトスピーチが周縁化しなくてもかまわないというのであれば、そんな腹づもりで行なわれる「批判」などアリバイづくりでしかない。世の中に「私が間違っていると考える」ものはたくさんある(そして私が間違っていることも多々ある)なかで、なぜある種の「間違い」はスルーするのに別の「間違い」はスルーせず批判するか、といえば後者について私が、「単に間違っているだけでなく有害である」と考えるからであり、「有害」であると考える以上それを周縁化することを目指さないのは欺瞞でしかない。あらゆる「間違い」をフラットに並べるような主張に私は与することができない。

戦う相手を間違えてるよ - Apeman’s diary

 ……というあたりを読んで、法制化以前に、ヘイトスピーチなるものを、なんというか、一つの意見という言論として扱うかどうか、どう対処すべきかというあたりにも割れるところがあるのだな、と。
 でもって、まあなんというか、ヘイトスピーチについては、どうも自分が追っている各エントリの流れの中の本題ではないようで、まあなんとなく気に留めつつ、依然として「どうなんだろな?」と思いつつの、まあそんなところでブクマは一段落。

(どこかで見つけた「反ファツズム」の落書き。ブラキシズムといい、世の中には数多くのイズムがあるものだ)

ここところのこと

 と、それから数か月、また最近ちらほらヘイトスピーチという言葉を見かけるようになって……。
 引用する時間がないので、以下のあたりを読んだと。

 それでもって、最近はてな匿名ダイアリーで、在日韓国朝鮮人などの読ませる記事が多くて、その中でこのような書き込み。

けどネットの嫌韓コピペだの在日認定だのブログ炎上だの見てそれはガラガラと崩れてった。
見ず知らずの多くの人間が、私に流れてる血に向かってすごく軽い気持ちで憎悪を向けているのを見るのは本気で怖い。ヒットポイントをがしがし削られて死にそうな気分になる。

それじゃ便乗して民族学校通ってた在日もちょっと書いてみるか。追記

この辺でインターネットの嫌韓に触れて死にそうになった。
嫌いなものの血というか何かが脈々と自分の中に流れていることに耐えられなくなったりした。

http://anond.hatelabo.jp/20090414170900

 それとあと、例のヘイトスピーチ動画、このあたりを見て、えーと、急にスピードアップするけれども、ヘイトスピーチは法規制化されてもいいんじゃないのか、という方に傾いた。これはもう、秤に小っちゃい分銅おいてちょっと傾いたくらいで、「運用法によっては怖い」とか「線引きが難しそう」とか、そういうところはある、あるけれども、法でこれについて定めておいていいんじゃねえの、と。
 なぜっていうと、やっぱりこれ、言論である以前に暴力っつーか、先制攻撃というか、「とりあえず言い分を聞いて、反論しよう」という類のもんじゃないわけじゃん。そういう行為に対して、罰の値札がついてない、ご自由にって状況じゃあまずいだろう、と。

罪と罰と自由と

 で、表現の自由はどうなるの? というところも、やっぱりあるだろう。そこんところの運用は難しいと思うけどさ。でもさ、こういうと、はっきり言ってテロリズム容認みたいな、そんなあやうさがあるかもしれないけれども、たとえばだよ、犯行予告じゃないよ、たとえば、今、俺が急に服を脱いで全裸で街中を走ったり、そのまま誰かを殴ったり、歩行者信号を無視したりするのは、なんというか、自由といえば自由というか。たとえば、それをやろうとすると、俺の頭に埋めこまれた爆弾が爆発するとか(掃除が大変そうなので、職場に迷惑)、緊箍児(きんこじ/西遊記の孫悟空が頭にはめられてる例の輪っかのこと。もしもこんなん読んでる人がいたら、これ一個覚えて帰ってください)がきりきり締まって頭が爆発するとか(やっぱり職場に迷惑)、まあ、そういうことはないわけだ。要するに、なんというか、まあ、自由なんだよ、やりたいようにやろうと思えばやれてしまう、後から罰がついてくるんだ。

 となると、もう罰せられる覚悟のあるやつは、それでも言うんだ、牢屋入ろうと、ヘイトなんだってやつは、その上でやる自由はある、……っていうのは暴論かいな。相手をぶん殴る言葉であれば、その分、傷害罪はついてこなきゃおかしいんじゃねえの、と。でも、それでいいのか? それを表現の自由と呼べはしないが、自由ではあるじゃねえのって。でも、なんかあやしい。そこんところがよくわからない。

無知の涙を流す俺にとっての罪と罰

 そうだ、そもそも、俺が読んだ、法律について書いてある本といえば、高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』くらいであって、俺の法律(刑法)観というのはほとんどそれによっているといっていい(だいたいたいせつなことは、『ジョン・レノン対火星人』に書いてあるんだ。ハイペリオンの栄光だって)。そこには次のように書かれていた。

(12) 問題はわたしが過去の犯罪によって国家に対して負債を負っているかどうかということだ。
 たとえばベッカリーアの流れを汲む学派ならわたしの負債はわたしが死ぬまで消えないことになってしまう。それでは困る! わたしはわたしが模範的庶民であることをパシュカーニスの「法哲学の一般理論」によって証明してみよう。
 「犯罪と刑罰は、商品と貨幣の関係に対応している。それぞれの犯罪はそれぞれの商札をぶら下げて、裁判所という市場で売買される。資本主義的生産様式が支配的である社会においては、値のつかない犯罪は存在しない。
 窃盗は『¥一年』で、強盗は『¥五年』で強姦は『¥八年』で、この市民社会の法的市場の中を流通している。もし窃盗の『¥一年』という価格が充分に引き合うと生産者(犯罪者)が考えれば、生産(犯罪)は増大し、生産物の価値は相対的に下落する。つまり窃盗のプライスは『¥一年半』になる。
 それは商品の生産とは逆さの運動をする。資本主義的生産様式が支配的な社会においては、刑法とは商法なのである」

 したがって「三年」を現金で支払ったわたしには国家への負債はない。
 わたしは模範的市民だ。

ジョン・レノン対火星人 (講談社文芸文庫) [ 高橋 源一郎 ]
 ……と、こんな感じ。ベッカリーアやパシュカーニスが実在の人物かどうかすら知らないし、ひょっとしたら、上の法律論はトルコ「ハリウッド」で「石野真子」ちゃんのお客さんである資本論おじいちゃんが書いたものかもしれない。そのあたりはよくわからない。よくわからんが、俺にはその値札の考え方がすごくわかりやすくてたまらないのだ(前科のある人についての見方も、ここに教えられたところが大きい。金払ってるじゃん、と)。料金後払いのマーケット、と。
 というわけで、ヘイトスピーチそのものについての罰がない、というのは、ちょっとバランスを欠くというあたりがあるんじゃねえのって。なにせかなりの暴力だ。それに、表現の自由云々っつっても、たとえばわいせつ物陳列罪とか、侮辱罪とか、名誉毀損とか、不法になるものと、ちょっと矛盾みてえのもあるし。
 もちろんね、法以前の問題として、そりゃあまあみんなどんどんかしこくなって、差別をなくし、人権が尊重されていけばすてきやんって、そういう流れみてえのも大切だしさ、運用でこわいところがあるっつうのも想像できるよ。でもまあ、なんか、ちょっと、罰があると、言いたいなら、その覚悟背負って言え、と。……と、いう考え方は危なそうなところがある。そう、たとえば「死刑になってもいいからテロルに走る」ということを否定できねーっつうか、「金払ってるんだから、なにやってもいいだろ」みてえなものに対してね、ねえ。やっぱりもっと、なんというか、中学の公民の教科書から読み直すべきっぽい。ね。

でも、よくわかんねーや

 けど、こんな話なんかもあるんだよね。

 議会で社会党グループからルペン氏に対し「ホロコースト修正主義者」との非難が出たのがきっかけ。ルペン氏は「私は、ナチスガス室第2次大戦の歴史の細部にすぎないと語ることを自制してきた。だが、これは明白な事実だ」「私は(同様の)発言で、思想信条の自由が保障された欧州で20万ユーロ(約2600万円)を支払ってきた」と反論した。
 欧州の国々では、ホロコーストを過小評価する発言を公にすると「反人道罪」の否定として刑事罰に問われる。

http://www.47news.jp/CN/200903/CN2009032501001110.html

 こいつにとって、『2600万円』というプライスは、これ、逆の価値観からすれば、2600万分の闘争の証というか、ルペンと思想を同じくする仲間の中では、誇れるものになっちまうというか。むしろ、なんというのか、刑務所に入ることが、長年の反抗、闘争だみてえなのの、なんつーか、そういうような面もあるような。
 あー、でも、たとえば、暴力団の中では「おつとめ」だったり、ひょっとしたら、それぞれの犯罪者たちにとっても、そういうところがあるかもしれず(スゲエ数のエロ画像ケータイに溜めてたやつが、エロ画像界で尊敬されてたり、とか)、別にこの問題においてのみ問題になるもんでもねえよな、と。すごいところまでいけば、死刑の価値なんかも転倒したりする(殉死扱い、みてえな)。
 そんで、でも、やっぱり、なんだ、線引きと、運用のところがな。でもな、たとえば、言論の自由っていうときの、自由が、まあ後払いだとしてさ、それが前払いというか、払わせないってのだと、それはさすがにまずい。治安維持法っつーのか、まあ、頭の爆弾でもいいけど、「あれはヘイトスピーチしそうだぜ」って言って、官憲が出てきて、先に止めちゃうのは、まあまずいよな、と。それに比べたら、と。でもな、ちょっとまあ、またつらつら考えよう。

俺の恥とはてなの判断と

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://anond.hatelabo.jp/20090415063627
 つーか、そうだ、俺はこれ、このことを書くために書き始めて、なんでこんなに長くなってんだかわかんねーや。これだよこれ。俺が、なんかヘイトスピーチどうなんよ? って思ってるとき、まあまさにその一例みてえな書き込みが、匿名ダイアリーであったんだ。それも、まさにそういった話題であって、それを台無しにするようなやつだ。
 それで、俺はこれ、これはまさに、リアルタイムの実例としてどうなんよ? そう思って、ああ、でも、差し出がましいかもしれないし、俺にそれを指摘する資格があるのかどうかなどと逡巡しつつ(たぶん俺の日記のそれなりの量の中には、ヘイトスピーチ級のものも含まれているだろう)、書いたり消したりしながら、「このようなヘイトスピーチを、はてなはどう扱うか?」と書いてみたんだ。はてなの人が見るかどうかはわからん。わからんが、最近ははてなブックマークニュースなんてのもやっていて、ちょっと数のあるものは見るかもしれない。見て、どうするのだろう、と。一例として、どうするのか、と。利用規約みたいなものを読んでもわからない。つーか、書いてないし。だから、「消すべき」とかそこまでじゃなくて、ある種、傍観者のような「どう扱うか?」だったんだ。
 そうしたら、そこから通報して下さる方がいて、それで、しばらく立ったらエントリが消えていた、と。なんというか、これが現場か、というか、いや、たとえばこれは駅の掲示板に書かれた落書きを、駅員が消した、というような……いや、ちょっと違うか。比喩は必要か。よくわからんが、まあ、ちょっと政治とか法とかとは離れるんだけれども、まさに、これか、と。
 そうすると、どうもなんというか、自分の傍観的な問いかけというものについて、少し恥じるところがあって、たとえ匿名の、おそらくはコピペの落書きを消したにすぎないとはいえ、言葉を消すという判断にいたったはてなに対して、まあ、中の人は読まないかもしれないが、俺としては、これこれこういう経緯があって、あのように書いたのだと、このように、こう晒しだして、ふだんはぜったいに書かないような内容を書いて、こうやって恥をかいて、はてなカラースターを金出して買いはしないけれども、その、なんというか、こたえておこうという、そういう話なのでした。おしまい。