こちらを読んでもやもやと考えたことをもやもや書く。あるいは、いつも書いていることの繰り返しになる予感がある。
俺と民主主義
志村武『鈴木大拙随聞記』にこんなことが書いてあった。個人主義とか、自由主義とか、民主主義とかが日本に入ってきたが、これらはみんな付け焼き刃にすぎん。民主といっても、実際にはワイワイになってしまう。
たとえば、ここに偉い人がおるとする。民主主義下においては、その人も一票だけだ。わけのわからん人も一票で、わかる人も一票だ。理屈で考えれば、何も量でいわないで、質で考えなければならんはずだ。質においては大ちがいでも、政治上では同じワン・ユニットになってしまうということは、どう考えてもおかしい。これほど不均衡なことはない
だからといって、それならあの人に十票、この人には一票というわけにもいかん。標準が立てられんのだ。
人間は一人では生きていけないのだ。その点からみると、ワイワイのほうがいいともいえる。しかし、何百年かの後には、民主主義もだんだんと改善されていくことだろう。代議政体というものではなくなるかもしれん。また、代議は代議でも、何か選挙の方法が変わってくることだろう……
かなりラディカルな民主主義とか、代議制とかへの疑問だ。これを読んだのは二年前。目から鱗が落ちるような思いは……とくにしなかった。俺はとくに民主主義の信奉者というと角が立つが、そこまでのもんとは思っていないようだ。いつからだろう?
父は投票をしたことがない、というのが自慢だった。ブログをやったら炎上するだろう。ただ、政治や政治家、選挙は大好物だった。選挙速報を見ながら一杯、というのは彼の趣味だった。でも、投票にはいかないんだな。
で、小さいころから聞かされていた理由はこうだった。「投票に参加するということは、白票であれなんであれ、現在の政治体制への信任投票になるからだ」と。すなわち、父はこの日本国の選挙、国会、政治、枠組み自体が気に入らなかったのだ。
昔は、どうもその尺度がよくわからなかった。尺度というかスケールというか。多数決、民主主義、小学校で習うこと。でもまあ、なんか今ならわからんでもないと思う。父は吉本隆明の著書を全部持っていたくらいの吉本シンパで、かつては学生運動をやっていた。そのあたりが関係あるのかどうかは知らないが、なんというか、そこまで民主主義とかいうものは、絶対じゃないぜって考え方もあるかもしれないって。
いや、極左だろうと極右だろうとアナーキストだろうと、国体のあり方自体にノーを突きつける立場を取るとすれば、投票しないことが政治的な意思表示になるだろう(もちろん、国会内から革命ないし反革命を実行するという場合もある)。極端な話では、投票場へのテロルとしてあらわれるだろう。ついこないだも、アフガニスタンであっただろう。
また、投票率99.9%、指導者の得票率100.0%のような、ある種の独裁国家での儀式的選挙に「行かない」ってことなんてのは、たぶん命がけの政治的意思表示だ。俺は、選挙に行かないことも政治的な判断だと思う。意思表示だと思う。
でも、おれはほとんどの選挙に参加してきた。いや、たぶん全部だ。俺は元記事のブコメにこう書いた。ただこればかりだ。
"現実的に考えて政治に参加するにはやっぱりある程度の政治的基礎教養が必要だと思う"<同感。そして俺もそれに欠けている。投票はなにか、はずれ馬券を買うような気になる。ただ、馬券握ってる方がレースは面白い。 2009/08/2
はてなブックマーク - goldheadのブックマーク / 2009年8月26日
選挙観戦好みは、父に似たのかもしれない。ただ、俺は馬券を握るのが好きなんだ。オッズの、配当の仕組みもよくわらない馬券だけれども。ともかく、俺はただこればかりなのだ。
民主主義と自由
だから、ただこればかりの俺は、「そんなら家でそうめん茹でて食ってるほうがぜんぜん有意義だし、好きな音楽聴いてゆらゆら踊ってるほうがずっといいよ」ということが叩かれているとすれば、確実に叩かれる側の人間だ。さらにいえば、最近の俺は、「そんなら」の前提すらいらないと思うようになってしまっている。選挙無視したり、無視どころか存在に気づかないで、「そうめん茹でて食って、なんか踊ってたら日曜日終わってた、おやすみ!」ってんでいいじゃねえかって。なんか、そこんところの自由がない制度なんてクソだと思うし、それを敵視する考え方は苦手だ。なんというのだろうか、「民主主義は不完全だけれども、今はこのしょうもない制度しかないんだ」という考え方、物言いがあって、俺はそこんところに納得する。が、なんというか、それを盾にして「さあ、だから投票しろ、しろ。しなけりゃ政治に文句言う権利ねえぞ!」というようなあたりには、どうもひっかかる。ネタからベタというのかどうかわからんが、いつの間にか「不完全さ」や「しょうもなさ」をすっ飛ばして、「完全さ」を背負わせちゃってんじゃないの? というような。
自分だけがストイックな方向に突き進んでいくぶんにはかまわないんですけど、突き詰めていけばいくほど、他人がそうじゃないことが気にくわねえってのが拡大していきましてね。そのうち、こりゃかなわねえってことになるわけですよ。
吉本隆明・糸井重里『悪人正機』
しょうもない制度、それなりの制度なら、なんつーのか、しょうもない人間、わけのわからん人間が、投票しようともしまいとも、べつにしょうもねえんだから関係ないだろ、というか。あるいは、俺の中で、民主主義というか、人間というものに対して最大限にポジティブなあたりを汲み出して述べると、こうなる。「民主主義がすばらしい制度であるならば、民主主義に興味のない人間、反対の人間すらその中に包括しているだろう」と。民主主義がナイスであればあるほど、誰もかれもが自由にしていて、それで調和するはずなんだ、と。民主主義の民とは、どこのどいつまでを指して民なのかっていえば、それが民主主義であるならば、反対者も愚者もテロリストも全部「民」じゃなきゃだめだ、みたいな。
だから、べつに、いいじゃねえか、投票しようがしまいが。投票率100%の世界がディストピアだと思うんなら、自分らの世界の非投票者に感謝こそすれ、Disる必要なんてねえだろ、と。もちろん逆に、投票しないやつが、「お前らなに投票してんの? 馬鹿?」とかなると、それは同じことなんだよ。
そしてまた、今、僕は確信しました。こうして集まってくれたみなさんに言うのは、心苦しいけれど、服を着た僕を見たみなさんの目は、いったい、どんな目でしたか? それは全裸の目でしたか? 僕を、全裸の帝国に反逆するテロリストと見なしはしなかったですか? 僕を、なにか異端なもの、退けねばならぬ者と見はしませんでしたか? 僕は、それこそが、僕らを縛る、権威、常識、予定調和の衣装、仮面なんです……。全裸という服を着たって意味はないんだ!
4.23〜草なぎ革命の記録〜 - 関内関外日記(跡地)
……なんか矛盾しているけれども、民主が人の自由をつくり、自由が民主政治をつくるのだとすれば、その自由は本当に自由じゃねえといけないよ、と思うのだ。政治というものが人に有用であればあるほど、非政治的であろうとする政治的姿勢が肯定されなければならんというか、だから逆に、超やばいってなったら、人はそれぞれめいめいに勝手に投票する気になって、それなりの結果を出すだろう、と。
ま、このあたりがポジティブさ、楽観。「過去にそういう態度でちゃらちゃらした結果、ドイツが、日本がどうなったかわからんのか! 総括しろ!」と言われたら、「はい、私は民主主義の陥穽について楽観主義的すぎました。自己批判します」と言うよりない(でも、「お前はわかっていない。自分で自分を殴れ!」とか言われて、顔ボコボコになって死んだりする)。
でも、われわれ人類は少しずつだけれどもますますかしこくなってきたと思うし、ますますかしこくなりたいと思う。いつ一番かしこくなるかはわからないが、少しはかしこくなったと思う。みな少しずつ進歩したいし、少しは進歩したような気になっている。ますます、かしこく。
民主主義に賭けるなら
理由はわからないが、だんだん武者小路実篤的なポジティブさが自分の中に湧いてきた。なんというか、民主主義とか代議制は、おそらく不完全だし、究極の制度ではない。ないけれども、この中でこつこつやっていく方に、そうだな、複勝馬券を買うくらいのことはしたっていいじゃないか。いや、単勝と馬連、三連単流しくらい買ってもいいか。でも、財布をすっからかんにするほどは買わないぜ、くらいの。そのうちに、だんだんと、じわじわと、それなりに、ますます良いほうに、ゆっくりとでも進んで行けばいい。人間生活の終末は、すべての人工組織から開放せられて、自らの組織の中に起居する時節でなくてはならぬ。つまりは、客観的制約からぬけ出て、主観的自然法爾の世界に入るときが、人間存在の終末である。それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。ひたすらその方面へ進むだけでたくさんだ。
とは、いつも引用する鈴木大拙「現代世界と禅の精神」の一節。でも、この続きもある。
それまでは人為的組織は、それを作り上げるまでのさまざまの条件の転化するにつれて、転化するにまかせておく。さまざまの条件とは、自然界環境と、組織構成員の知的・情的・意的進転である。(この内外の条件は最も広い意義においていうのである。)これらの条件はいつも移り変わりつつあるので、それを大にして、人間が考え出し作り始めた社会組織なるものは、けっして永続性を持たぬ。また一場所・一時代における構成が、そのまま、いつまでも、どこへ行っても、完全であるとは、夢にも想像できぬ。それゆえ、いつも不定性・移動性・局部性を持ったものと、考えておかなくてはならぬ。
自然の環境の人工によって変更を加うべき範囲は、知れたものである。ただ、いつも変わらぬと見るべきもの、否、しかと見定めなくてはならぬものは、われら内面の自由な創造力である。これを内面というのは、前にもいったごとく、すこぶる物足らぬいい現しではある。が、今はこれを詳しく論ずるひまがない。いずれにしても、われら人間の内面性の極限にあるものは、万古不変だ。これは、人間社会組織のほんとうの根源だから、何をやるにしても、考えるにしても、われらはここに最後の考慮を据えつけておかなくてはならぬ。
社会組織は永続性を持たない。でも、その根源となる、人間の内面は万古不変である。でも、その矛盾を飲み込んで、そのままに転がっていくよりないだろう。社会組織を形づくる国家、党、思想、指導者に永遠を見てはいけないし、逆に、極限のところの内面そのままでは、「一人では生きていけない」われら人間の生活は形づくれない。
しかし、やがてこれらが同時に、なんの欠けるところもなく一致したときに「自らの組織の中に起居する」こと相成るのだろう。でもね、俺はそのあとに大拙がつけ加えてるところが好きなんだ、この上なく。
それはいつ来るかわからぬ。来ても来なくてもよい。
来ても来なくてもよい。俺は、ここのところに、ものすごい自由があると思う。そして、逆にすごい自信があるのだろうと見る。そんで、そこのところに、なんというのだろう、たとえば、自分がこの国における選挙というものに信を置くとするならば、置けばおくほどに「投票してもしなくてもいい」ようなところが出てきて、それで、その上で投票したりしなかったりして、その上で、なんというのだろう、ひょっとすれば、民主主義みたいなものが破れるなら破れるだろうし、もっといいものになるかもしれない。ならないかもしれない。うーん、うまく言えないが、よくわからないが、よくわからないんだ。でも、その上で、たとい勝ち馬がどれかなんかわからなくたって、馬券は買った方がおもしろいはずだ。いや、はずれ馬券ばかり買っていると、空から地獄が降ってきたような気になって、もうぜんぶ嫌になってしまうが、投票権はただでもらえる。厳密にただといっていいかどうかわからないが。
だから、その上で、まあ、俺は、俺については、愚か者なりに、無知なりに、競馬新聞をよく見て、一票をね、投票しようかと思うのだ。もしも民主主義がけっこうナイスで、無関心や反対者を内包するのならば、関心のある愚者だって内包しているだろうし、それもまた飲み込むくらいの度量はあるはずだ。俺の一票で世界はぶっこわれない。
各時代に、やはりとてもかしこい人、ひとびとに頼られてそれに応えるハートのある人、そして俺のような馬鹿みたいなのがいて、それぞれの人間の割合というのは半々なのか、9:1なのか1:9なのかわからんが、まあそのように二分せずとも、いろいろの人間が生まれて、とりあえずこのようになってきているのだから、無理してかしこくない者がかしこくなろうとしようが、あるいは、無理してかしこくなれようが、あるいは無理せずかしこくなろうが、無理せず馬鹿のままだろうが、まあたいした話ではないし、歯を食いしばって、苦しみ抜いて、苦行の末に為すほどのことなどありはしないというか、あったらあったでいいかもしれないが、なかったところでどれほどのことだろうか。また、いつの世にもかしこい人、ハートのある人というのがいて、あるいは大きな負担に耐えられる人、苦しみに耐えられる人、戦いに耐えられる人、闘争に負けぬ人がいて、そういう人たちもまたときに世界をよくし、あるいはときに間違うかもしれないが、まあまだ人類は滅びていないというところに、希望を見出すという、偶然生まれてきた我々にしては、なかなかマシじゃないかという、その程度に思ったっていい。
俺のような馬鹿はどう生きようか、何を言おうか - 関内関外日記(跡地)
というわけで、はたして俺が無知のままでいいのか、そういう疑問とは無縁ではいられない。あまりにも複雑化した社会、高度な経済、俺にはわからないことだらけだが、あまりにも無知でいいと開きなおることも面白くない。無知でも学識がなくてもいいんだ、というのが、あまりに前面に出すぎるというのも違うように思う。やはり俺は、投票する以上少しはかしこくなりたいし、よく走る馬を選びたいと思う。ただ、それで俺が勝ち馬を見つけられるようになろうが、人気を裏切る馬、オッズ相応の穴馬もどきばかり買うようになろうと、だからなんだというんだ。俺はただこれこれのこの程度の人間であって、間違えようとも俺にはどうしようもないことであって、そんなものに過剰な希望も恐れもいだく必要なんかあまりなんだ。俺はそう思って、いつも息をして、飯を食い、自転車を漕ぎ、疲れたら寝てしまう。