母が引っ越しを余儀なくされて、なんとまだ続いている。一ヶ月以上だ。家主に延長を頼み込んだらしい。おれは金だけ出して関与していない。父は透析を受ける自己責任の一級障害者で、ニートの弟が力仕事をしている。どれだけのゴミ屋敷になっていたのだろうか、想像もつかない。
そんななかで、「あんたが子供のころ描いた絵が出てきたけどどうする?」とLINEがきた。「要らない」と答えた。が、大きなビジネスバッグいっぱいに詰まった落書きの束と、油絵を一枚捨てずに残したらしい。落書きはおれが幼稚園のころから描いてきたものだろう。おれはよく絵を描く子供だった。絵ばかり描いていた。
そういうわけで、おれは幼稚園の放課後に開かれていた「お絵描き教室」に通っていた。先生は本来日本画をやる人で、平山郁夫の弟子だった。この話は何度か書いているかもしれない。おれは平山郁夫の孫弟子である。
「お絵描き」は小学校に上がってからもつづけた。小学六年生までやったのではないか。おれは小学校の六年間も幼稚園に通っていたことになる。油彩をはじめたのはいつごろだったかさっぱり覚えていない。ただ、油絵のためのセットは買い与えられた。昔から買い与えられてきた。幼稚園のころには六十色の色鉛筆を買い与えられたように思う。同じように、すごい色数のクレパスも。
まあとにかく、油絵をちょっとだけ描いた。そのうちの一つが、上のピエロの絵だ。いかにもつまらないと思う。描きたいもの描いていないからだ。とはいえ、ピエロの人形と後ろの地球儀、たしかオルゴールだったそれらは家にあったもので、自分で選んだ題材だろう。でも、「お絵描き」ではデッサンなどは教えてもらえず、「ものを見て描くこと」については教わっていなかったように思う。「ものを見て描く」のはつまらないのだ。脳内にあるものをドバドバとそのまま好きに描くのが楽しい。
しかし、なんだろうか、いかにもつまらない絵とはいえ、自分の内面の一部は出ている。ピエロ恐怖症だ。ピエロは怖くて、悲しいものという思いが強くあって、それがよく出ている。絵のピエロ人形はどこかこわばって、小さく固まっているようでもある。表情は空虚で楽しさもなければ、かといって強調された負の感情もない。なんとなく、いやいや描いているのが伝わってくるようだ。
そうだ、いやいや描いていた。だから、なにか描き始めたとき、先生が「一度画面をすべて茶色に塗りつぶしなさい」と言ったのだった。その上に、これは描かれた。それを思い出した。そのようにして、これは描かれた。それだけだ。
どうせ出てくるなら、「おれもなかなか絵が好きだったな」と思うようなものが出てきてほしかった。まあそんなものは、ないかもしれない。まあ、ペンの一本でもあればこれからでも描けるというものだ。以上。