「未来はわたしのもの」―草間彌生
こころの憂いの中で沈んだ今日の万物の気配
めくるめく人の世のよろこびと
悲しみの果てに落涙の中にうずもれて
わたしは今こそ芸術の力をもって
人の世のはげしさと天空の雲たちの身の色彩のこだまを聞きつつ
芸術の死にかけたはげしさ
私は人の世のかげりの中に
日々の幻影にたえて
明日の芸術のための心を虚しさをさびしく愛のさざ波の彼方に
心のかぎりの愛のしずくの中で
未来をも夢見て
花咲ける今の心は孤独に打ちのめされても
わたしは芸術の盾を持って
もっともっと人間としてのぼりつめていきたい
宇宙の果てまで、心の高揚にすがりついて
生きて生きていきたいと祈る
おれが草間彌生のファンなのは今にはじまったことではないが、そんなに遠い昔からのことでもない。つきあっている女が*1いつかのすばらしい横浜トリエンナーレで大ファンになっていて(美大出身なのでファンではあったのだろうが)、その影響で知ったのだ。東京で開かれた展覧会にも行ったし、湯河原の「かぼちゃ美術館」にだって行った。まあ、そのくらいだが。
たとえば、おれがエドワード・ホッパーをみるときと、草間彌生をみるときとは違う。ホッパーの絵は小説を読むような気持ちにる。高嶺格をみるときと、草間彌生をみるときとは違う。高嶺の作品は、いったいなにがどうなってこんなものができるのか、さっぱりわからないところにもっていかれる。
ものすごく不遜なことを言うと、おれは草間彌生の描くもののことがわかる。少なくともおれは一人そう思っている。自由に這いのびるライン、繰り返し配置される大小のドット、そのオブセッション、その没入がわかる。下書きもなしに、手が勝手に動いていくことがわかる。おれがつねづね「白いタイルにポツポツ模様を描く仕事をして生きていきたい」というのは比喩かなにかではなくて、実際にそうなのであって、そうなのだ。
「おれ、これ、こういうの描けそうですよね」と俺。
「描けるんじゃないの?」と女。
だが、実際におれは白いタイルにポツポツ模様を描く仕事をしていないし、それを趣味ともしていない。おれは絵(のようななにか)を描くのが好きだが、好きなだけで描きもしない。描けもしない。おれは何事にも人生をかけていない。何に人生をかけていいのかわからない。よくわからないうちに器用貧乏で糊口をしのいで、なにか一つの技、一つの道を持たず、あとは自死か路上か刑務所か。刑務所の中でひたすら花瓶かなにかに好きなように模様を描いていい懲役などあればいいのだが。それとも寿町でアウトサイダー・アートの人にでもなってやろうか。まあ、おれが『非現実の王国で』を描いてもすばらしい『ストライクウィッチーズ』のまがいものにしかならないだろう。悪くない。
なにか表出しなければいけないなにかがあって、なにか表現しなくてはならないなにかがあるから、なにかしなくてはならないなにかがあるから、おれが人格障害と強迫性障害と不安神経症とを抱えながらも生きているとするならば、ただ日常の喪失をおそれて死なないだけでいることよりはいくらかましなことかもしれない。人に評価をくだされることをこわがって、なにもしないでただ老いていくだけであっても、「ピカソもウォーホルも出し抜いてトップの芸術家になりたいの」と言う草間彌生のような自信とは無縁であっても、なににもないよりはいくらかましなことかもしれない。なにもないところになにもなくて、なにかあるところにこの世はあって、おれもまた天体による永遠の中の一員、反復の中の反復、永遠の永遠の永遠であると、そう考えるのは悪くない。
だが、何十億という地球の上で我々が、今はもう思い出にすぎない我々の愛する人々といつも一緒にいるのだということを知るのは、一つの慰めではないだろうか? 瓜二つの人間、何十億という瓜二つの人間の姿を借りて、我々がその幸福を永遠に味わってきたし、味わい続けるだろうと想像することもまた、別の楽しみではないだろうか? 彼らもまた明らかに我々自身なのだから。
―ルイ・オーギュスト・ブランキ『天体による永遠』
おれが草間彌生をみて感じるのは、とりとめのないなにか流出であって、流出そのものであって、それはまったくの奔放なのだけれども、じつにすばらしい調和とバランスがあって、植物や生命のなにかがそれのあるべきようによってあるべくしてある、そのようななにかなのであって、まったく虚無の世界に対してあることの悪くないことそのものなのだ。
(注)写真は「撮影可」の表示のあったもの。撮影についての注意書きの記された目録に「展覧会の感想をブログ、ツイッターでぜひご紹介ください」とあって、写真掲載についてはなにも触れていないので、堂々と載せることにする。ただし、展覧会の中心はカラーとモノクロの平面画である。常設展では初期作品とiidaの草間スペシャルが展示されていた。また、当日、この美術館のある公園ではメーデーの集会が開かれており、俺は「歩兵の本領」と「アムール川の流血」と「メーデー歌」をチャンポンにして歌いながら通り過ぎたりした。草間の赤い水玉を日の丸と勘違いして美術館に階級戦を仕掛けて花と散った埼玉無産の民はいなかったことを付記する。
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……「若いカップルやおばちゃんなど」という客層の多様さというところは埼玉もそうだったけれども、国立国際美術館(がどんなところか知らないが)とくらべると、たぶん埼玉は大空間と表現するわけにはいかないかな、などと。でも、わりとこぢんまりとしててよかったけれども。
[rakuten:takahara:10180782:detail]
……冒頭に引用した詩は展示の中に掲げられていたもので、なんかすごくすげえいいと思って、その掲載を確認して図録を買った。詩集も小説も読んでみたい。草間の言葉には、なにかこう、大杉栄の言葉みたいな伸びやかさがある。
……まあたいして書いてないな。
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……これは書いていて思い浮かんだ。
*1:おつきあってくださっている二回り上の女性、が正しいが、文章のノリというものもあるのだ。