横浜公園のバザーで毎度のこと多肉植物に眼を光らせたが俺の望むリトープスはなかった。あれは脱皮するからおもしろいのだ。まあ、結局べつのものを二つ買い足したが。バラもいくらか売っていたが、渋い色調のものはなかった。もっとも、俺にバラの世話ができようか。そもそもスペースがない。
2週間前、軟骨に新しく開けた2つのピアス穴は安定してきた。服を脱ぐときにひっかけてもそんなに痛くなくなってきた。適度な消毒は欠かさないし、俺はそんなヘマはしない。化膿して腫れ上がるとか、そういった笑えないエピソードはない。想い出はいつも俺を暗澹とさせるし、それで腹が満たされるわけでもない。
人間はお腹が空くからよくない。腹が空くことへの恐怖がなければ、みな、もう少し、そんなに病むこともなく生きていけるかもしれない。飢えて死ぬ人間のことなど考える余裕などない。
地方では食べられるものについて、農家であるとか半分農家であるとか家庭菜園と呼べるかどうかわからないような規模の何かで作られたものおすそわけだけとか、物々交換するだとかで、まったく自給自足じゃないけれど、それに近いのよ、という話を聞いた。
とうぜん食べられるものを作るには手間暇もかかるし、技術も初期投資も必要だろうが。
ただ、正直、なにかうらやましさをかんじたのはたしかなのである。この肉体とかいうものを維持するところの土台が、それなりにしっかりしているんじゃないかと、とう思えたのだ。
だが、俺は田舎暮らしはさっぱりごめんだ。そういった物々交換だの相互扶助だのは、濃密な人間関係があってのことだ。想像したくもない。俺は地縁血縁に縁の薄い都市で育った上に、回避性のパーソナリティー障害だ。
だから、伊藤野枝(だったと思うが手元にない)が自らの故郷で行われた人々の関係性の中にある種のアナーキズムを、相互扶助を見出すような文章にあたると、どうもしっくりこない。なにか人間関係の縛りのようなもの見てしまう。
むろん、ある部分はよく、ある部分は悪い。
表裏一体、表と裏はどちらに価値があるのかないのか。ただ、少なくとも地方から都会へ人間は流出しつづけた。また、突如農村や漁村にあらわれた大工場は、それまで生まれによって固定されていたハイアラーキーを、労働者としての能力によって逆転できるものと歓迎された部分もある。都市の空気は自由にする、働けば自由になる。
え、働けば自由になれるのかい? そんな話はない。かといって、今の俺が働かなければ次の三択が待っている。
自死か、路上か、刑務所か。
ただ、可能性というものはいくらでも広がっている。あと二つはある。一つ目は生活保護である。ひょっとして、俺もあと二個くらい役がつけば満貫にでもなって、なにか保護されやしないだろうか。まあ、無理か。なにせ俺はむしろあまりにも偉大で尊すぎるので、役人ごときにははかりしれまい。もう一つはバスソルトだか脱法ハーブだか、あるいはその両方でも食べて、生きたホームレスの顔を全裸でおかわりしてたら射殺されました、というような話である。……なんだそりゃ、自殺とかわらないか。
まあ、やはり三択だろうが、路上に落ちる覚悟というか決めてというか、そのやり方というのはいまいちピンとこない。まあ、ピンと来る前にストンと落ちるものだろうが、そのストンに気付けないのではないかという予感もある。そうなったあとに、なにか考えるちからが残っているのか?
その点で自殺と刑務所はあくまで能動的なものであって、不断の注意力と跳躍する判断、これが必要とされる。あるいは勇気が。勇気というものは、おおよそ俺の辞書に存在しないものの中でも五指に入るものであって、要するに勇気がないのである。死んだやつは立派だ。
まあ、何度かんがえたところで、到着するのはここである。俺は働かなければ衣食住を失う。働くための機能を維持するためには抗うつ剤と向精神薬と入眠剤とスリープスプリントが必要だ。
問題は、そうしたところで、これが長く続くわけがないということだ。俺は公務員でもなければ国策企業の正社員でもない。あっという間にその時がくる。ものすごく小さな会社だから、そんなこと帝国データバンクに問い合わせなくたってわかっとる。
従来型の労働から、別の形へ? 価値評価の時代へ? まったく俺には関係のない話だ。俺にはきちんと従来型の労働を勤めあげるだけの能力もなければ、インターネットとかいうものを利用して、人と人とのつながりでどうたらする能力もない。はっきり言えば、後者のほうが地獄そのものといっていい。生きようがない。
埴谷雄高は繰り返し、国家という首のすげ代わりと、革命家の成れの果てを批判し、革命家は革命が成就したら死ななければならない、革命の革命が必要であると言う。社会の、人間の価値のありようがここのところ示されているようなものに、あるいはそれがstudygiftのようなものであれなんであれ、やはりそれはなにか値札がすげ代わっただけのようなものだ。生きるのに必要とされるものが書き換えられただけだ。
俺は未来の無階級社会よりの派遣者だから耳を貸せ。貸さないやつは死ね。いいか、無条件に生きられるようでなくてはならない。役に立つ、立たぬの尺度の中では、あらゆる人間は自由になれない。無目的、無価値、それでいい。いいも悪いもない。役なしどころか、多牌しようが少牌しようが勝手だ。そもそもどこかの机に縛りつけられる義務なんてものはない。
ああ、まったく、ろくでもない人間だけの世界、意識の低い人間の世界は、国は、居所はありえないのか。それとも、どこかの賢いやつが理想郷のような国家を作って、その中に住まわせてもらうことになるのか、おこぼれをいただくのか。まあ、それでもいいだろう。ただ、それでも俺は卑屈になんてならないで、山の上からその町を見下ろして、この世の王様になったような心持ちでぼんやりとしていたい。