『11.25自決の日 三島由紀夫と若者たち』(舞台挨拶つき)を観る

 若松孝二監督の『三島由紀夫』をみた。公開初日である。しかも、舞台挨拶つきである。おれは生まれて初めて舞台挨拶つきで映画をみた。映画館はいつものシネマ・ジャック&ベティである。朝11時から配られる整理券を求めて並んだりしたのである。

 例によって、あまり事前の情報は仕入れないで行った。たまたま主演のARATAさんが「井浦新」に名を改めたという記事を読んだくらいである。正直言って、どんなふうに三島由紀夫が取り上げるのか、想像がつかなかった。『実録・連合赤軍』、『キャタピラー』ときて『三島由紀夫』だ。ずっと前には『赤P』だ。ひょっとしたら、三島由紀夫については批判的な描かれ方をするのではないか、とすら思っていた。「若者たち」は決して悪し様には描かないだろう。ただ、三島本人はどうなのか。
 して、はっきり言って、まったくそんなことは感じさせなかった。むしろ、三島も「若者たち」と変わらぬ、悩める一青年のように描かれている。それをグイグイ引っ張っていくのは森田必勝であり、森田必勝の話のようにも見えてくる。そして、山口二矢の「七生報国」から、金嬉老事件(おれは寸又峡温泉に行ったことはあるが、この事件の舞台とは知らなかった)、そして「先をこされた」という田宮高麿のハイジャック(なにせ日本刀を使ったのだから右翼に衝撃が走った)という、行動するものの連鎖の先に三島の決起があり……。 
 って、これは鈴木邦男の史観じゃないか。観ながらそう思えてきた。したら、エンドロールで「企画協力 鈴木邦男」と出てきたので納得した。また、パンフなどを読むに、ディテールについてもある部分はそうとうに本当のこと、という裏打ちがあるというわけだ。

 若者たちの話、反逆の話、かといって、成功するわけでもない話。ああ、ネタバレするけど、三島由紀夫は割腹するし、決起は失敗に終わるし、崇徳院は讃岐に流されるから。なんというか、連合赤軍が国家相手に殲滅戦をするよりも見込みのない話といっていい。それなのに、妙な明るさすらある。そして、止めようとする者がいない。『実録・連合赤軍』では内部での対立があり、加藤兄弟末弟の「勇気がなかっただけ」発言もあり、要はなにか組織が人間を狂わせていくようなところも描かれていた(……と思う。また改めて観よう)。
 が、『三島由紀夫』には、どうもそういうところがない。みな一本気だし、対立というか離脱のようなものはあっても、俗っぽい事情のようなものであって、血生臭くならない。ただ、三島が自ら思いつめ、若者たちというか、森田が拍車をかけていく。かといって、三島が一方的に煽られたというところでもなく、一致するところがあって、その先にあの行動があって、残された者には重いなにかが託される。描かれかたも、とくに奇をてらった感もなく、正面から、正攻法で、ズバッとあの事件を描いてみせたという、そういう印象。ただ、寺島しのぶだけが変わらずにひょうひょうとしている。そして、あのラストシーンはすごくすごいです。ある意味で、肯定的に描かれていたものをひっくり返すとは言わないが、なんというか、重い余韻を残すところがある。それにあの音楽が……。

 まあ、ともかく観てほしい(……って宣伝しろっていつもジャック&ベティの社長が言うところ、今回は舞台挨拶で監督直々に言ってたし)。もちろん、完全無欠な映画じゃあないだろう。はっきり言ってしまえば、いくらでもチープなところは見出せるだろう。車窓に映り込む風景に現代のコンビニの色を見つけることもできるだろう。だが、そんなところは別にいいんだ。いや、できることなら騒乱のシーンとかも、記録映像ではなく、エキストラ大勢集めて演出させた方がいいのかもしらん。しらんが、なんというか、そこを気にさせないというくらい、役者に存在感がある。井浦新は若すぎるのでは(そしてあの大学生はいくら実際に「じいさん」というあだ名があったとはいえ老けすぎているのでは)、とも思ったが、だんだんなんというか、三島由紀夫でない三島由紀夫になってくる。ガチガチの肉体でかためてしまった三島由紀夫像ではなく、もっと弱みのあるところの三島。かといって老いやコンプレックスだのといった、自決にある種の説明をされてしまった三島でもない三島。そこのところがなんとも言えぬ。
 一方で、森田必勝はといえば、これも鮮烈な印象、いつも青筋立てているような血気と直情というようなものがにじみ出てきていて、かといって狂気の向こう側までは行っていない。これが若さか、かといって若さ故の過ちというなかれ。そんな気にもなる。
 あと、なんというのだろうね、三島といえば当然同性愛的な部分は避けられない部分ではあろうが、そういう面ではどうなんだというと、ここも絶妙のラインである。そう見える人には見える余地もあるし、この作の中にその余地はないとも見てもいいだろうし、やはりサウナが……と見てもいい。

 ところで、この森田必勝役の人、wikipedia:満島真之介くん(……ってお姉さんの満島ひかりはなにか良い役者らしいけれども出演作観てないや)など、今回初めて知ったわけだったのだけれども。まあ、しかしだ、舞台挨拶だ。俺が観た回は上映後なんだけれども、さあ盛大な拍手でお迎えくださいって右手の扉から若松監督がジャンパー姿で出てきて、その後ろに続く二人が楯の会の衣装着てるの! うわ、スクリーンから出てきた! みたいな、そんな気になったね。なんかもうミーハー気分ですげえ拍手しちゃったわ。でもって、ここのところ毎週日曜日の夜に見ている井浦さんがわりとデカいのと、満島くんがなんか劇中と一緒の怖い顔してて、なんか迫力あったんだけれども。ただ、挨拶とか聞く分に、ひょっとしたら緊張なさっていたのかしらんなどとも。
 まあともかく、舞台挨拶からも、パンフレット(あ、さっきから載せてる写真、これ、サイン入りだかんね)からも伝わってきたことだが、若松監督自身が「メイキング見てて自分が精神異常じゃないかと思った」というくらい厳しくやられたらしく、あのなにか究極の具合はそういうところから引き出されたのか、などとも。で、そういや、『連合赤軍』のときに大西信満(今回も出演)が怒られ役だったのではないかって思ったりして、そういえば大西さんは『赤目四十八瀧心中未遂』で寺島しのぶと共演してて、「面白い子がいる」と監督に満島くんを紹介したのは寺島さんみたいな話をしていたようで(聞き違いだったらすんません)、なにかちょっと寺島さんこわい、とか思った。でも、なんかこう、たいして映画見てるわけでもない単なる一観客が言えるようなことじゃねえけれども、本人も言うようにすげえ貴重な体験をしたんだろうし、こっからバンバン活躍していくんじゃねえかとか思ったわ。
 それでもって、若松監督、さらに秋に公開されるの撮り終えてるし、その次になんかすごいのを用意してるっていうんだから、そのためにも、ともかく、たぶん時間は損しないので、マジで観るべき。そう言っておく。

ついでに、俺の中の三島由紀夫

三島由紀夫おぼえがき (中公文庫)
 ところで、「三島」、「三島」といったところで、おれは短編〜中編をそれなりに読んだけれども、長編、とくに晩年の作は読んでないんだわ。というか、三島由紀夫への経路は澁澤龍彦であって、澁澤からみた「世紀末デカダン」でサドやバタイユに興味を持ち、わりと洒脱でユーモアのある三島像みたいなものにつよく引っ張られているところはある。それゆえに、なんで日の丸鉢巻に? というところは、三島の『文化防衛論』のようなものを読んでもしっくりこないし、やはりよくわからない。この「よくわからない」感も、澁澤龍彦の事件当初の戸惑いや悲憤、その後のわかったようなわからんような分析に引っ張られているといっていい。
 が、なにより、この経路で三島由紀夫について一番印象に残っているのは、三島本人の発言である。

 ……僕はこれからの人生でなにか愚行を演ずるかもしれない。そして日本じゅうの人がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。まったく蓋然性だけの問題で、それが政治上のことか、私的なことか、そんなことはわからないけれども、僕は自分の中にそういう要素があると思っている。ただ、もしそういうことをして、日本じゅうが笑った場合に、たった一人わかってくれる人が稲垣さんだという確信が、僕はあるんだ。僕のうぬぼれかもしれないけれども。なぜかというと、稲垣さんは男性の秘密を知っているただ一人の作家だと思うから。……そして僕は、男の気持というものをメタフィジカルにわかって、男の秘密から発するものが天井と地獄をかけめぐる場合、どこででもちゃんと鈎でもってひっかけてくれるのが稲垣さんだという確信を持っている。上のほうだけでひっかける人、あるいは下のほうだけでひっかける人は何人もいる。けれども、天上界から地獄まで通じてる人は稲垣さん一人だ。僕はそれを思うから、稲垣さんというのはメタフィジカルな存在、これはそーっと会わないでとっておきたい。
対談「タルホの世界」

 昭和45年5月8日(つまり自決の年)、澁澤との対談。ここでいう稲垣さんとはどこかのメンバーのことではなく、稲垣足穂である。おれは稲垣足穂がかなり好きで、それは三島が高く評価するところでない、受け入れやすいところのモダニズムや金属的な美学のあたりかもしれないけれども、まあともかく、「日本じゅうの人がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない」ことについて、「たった一人わかってくれる人が稲垣さんだ」と言い切るところに、なにかこう、そうなのか!? みたいなところがあって、なにかそればかり強く残っている。むろん、『一千一秒物語』に対する三島の賛辞は知っているけれども、これを読んだとき、そういうものなのか、と。それは三島が、であり、稲垣足穂が、であって、妙にふしぎな結合をして離れることがない。男の世界、男の子の世界(少年愛という意味ではないよ。含まれるかもしれないが)。
 こうなるとやはり、おれはもっと三島由紀夫の本にあたらねばならんという気になるし、一方でそこまでいう稲垣足穂の中に、あるいは弥勒の中に、三島晩年作と通じるところがあるのか確認したくなるようなところもある。
 と、まあそれはそれとして、たまたまこの本の冒頭が、映画にも出てきた1968年の新宿騒乱事件の日の様子なので、軽く引用して終える。

 昭和四十三年十月二十一日は国際反戦デーとかいうことで、新左翼系の学生が騒ぎをおこすという噂が朝から巷に流れていた。その日、私は私の編集していた雑誌「血と薔薇」に関する用件のために、夕刻、六本木の小料理屋で三島由紀夫と落ち合った。同席者が二、三人いたと思う。三島はカーキ色の戦闘服に身をかため、ヘルメットに長靴といったいでたちで現れた。この東京都内に騒乱があって、それに自分が参加しうるということに浮き浮きしているらしく、長靴を脱いで畳の座敷にあがりこんでからも、しきりに電話で情報をキャッチしては、時々刻々、デモ隊が東京のどの方面へ流れていったかを確認しようとしていた。
 しかし私がここに書いておきたいのは、そのことではない。三島はこのとき、一年前のインド旅行の話をした。インドには、いかに珍妙な畸形人間がいるかということを私に説明するために、それまであぐらをかいていたのが、いきなり両手を後方の畳につくと、両足を前に出して腰を浮かせたのである。なんといったらよいか、四つんばいの逆の姿勢、高山寺にある鳥獣人物戯画丙巻で、若僧と老尼の首引きを見て笑っている男の姿勢である。仰向けの四つんばいといえばよいかもしれない。こういう簡単な姿勢を表現するのに、一言で分かるような言葉が日本語にないのは、実に不便千万といわねばならぬ。要するに、そんなおかしな格好をして、三島はこういったのだ。
 「こんな格好をした人間がいるんだが、ひとたび走り出したら、その早いこと、あれあれと見る間に、さっと見えなくなってしまうほどなんだよ」

 映画では削ぎ落とされた部分である。むろん、映画としてはここらあたりまで入れていたら最後に向かって一直線な感じの良さも削がれてしまうだろう。

関連☆彡

映画メモ☆彡
 今年映画館で見た映画は『恋の罪』『ヒミズ』『国道20号線』『サウダーヂ』『天皇ごっこ 見沢知廉たった一人の革命』『劇場版ストライクウィッチーズ』もう一回『劇場版ストライクウィッチーズ』、[http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20120522/p1:title=『サイタマノラッパー ロードサイドの逃亡者』に続き9本目。舞台挨拶といえば、『ストライクウィッチーズ』で見ることができなかったのは心のこりではある。次に何を見るかはまったくの未定。