若松孝二『千年の愉楽』を観る〜血と地と……〜

 若松孝二の遺作となってしまった『千年の愉楽』を観る。映画館はジャック&ベティ。先週挨拶回があったらしいが、気づくのが遅かった。出演者のサイン入りパンフレットを買う。『三島由紀夫』もそうだったが、なんとも濃い内容のパンフレット。悲しいことに監督のサインはない。
 中上健次の本は何冊か持っている。持っているだけで読んだことはない。いや、正確には、52ページほど『鳳仙花』という小説を読んだようだ。積み重ねた本の山から引きぬいてみたら、2005年3回6日東京6レースの外れ馬券が挟まっていた。俺はシャコーサクセスとポイントセブンという馬の単勝二点買いをし、シャコーサクセスを軸にポイントセブン他2馬への馬連を3点買っていた。

 おれは細かいことに気がそれる人間だ。若松孝二は言う。「どうせ劇映画はウソの世界。いくらCGでリアルそうに作っても、所詮はウソだし、お客さんもそれを前提で観ている。だったら、人間の存在感のリアルを優先させたいんだよ」と。それはわかる。わかるが、おれは映画の隅を気にする人間だ。違う、そこに気がそれてしまう人間だ。オリュウの家の前のガードレールは、急坂の新しい手すりは、電柱は、あの家のエアコンの室外機はどうにかならなかったのか。低予算、早撮り、そのスタイルゆえにあえて無視すべきところ。しかし……。
 と、くだらぬ指摘はこのくらいにしておこう。人間を見よう。人間を取り巻く地と血と……そしてパンフレットに文を寄せている田嶋陽子に言わせれば無知、か? それはそうやもしれぬ。しかし無知で片付けるにはなにか虚しい。知でなく、あるいはもっと大きな叡智のようなものいや、叡智というものも堅苦しい。人が生まれて、死んで、生まれて死んで……、その終わりが暗いのか、終わりがあるのか。毛坊主の佐野史郎が唱えるのは浄土真宗の経だけれど。業田良家の『自虐の詩』のラスト近く「母から生まれた」など頭に浮かぶ。
 産婆のオリュウ寺島しのぶ)と毛坊主の佐野史郎の家から見える海の風景は、股を開いた産道の位置にある。抜群のロケーションだ。子が生まれるたびに、イザナミノミコトの御陵・花の窟が映される。ポッカリと空いた暗い穴は、あの世とこの世の境界のように見える。
 そして、血。「路地」。被差別部落に生まれる、美しい男たちの物語。貴種流離譚かなにか、中本の血。高良健吾高岡蒼佑染谷将太、それぞれにこの上ない怪しげで悲しく、行き場のない美しさを持っていた。その説得力の前には、おれが最初に述べたごちゃごちゃなんぞはどうでもいいといってもいいだろう。色気がある。女から寄ってくる。かといって、生きる道は華々しいものとはかけ離れている。「ほやけど俺ら路地生まれじゃけ、漁師仲間には入れてもらえん」。
 血に縛られ、地に縛られ……。ただ、その地には「オバはずっとここに居る」と、菩薩か聖母かとうオリュウがいる。この地に生まれる者を、母より先に抱く女。とはいえ、このオリュウも血肉を持った一人の人間である。このオリュウに若い達男が……という映画のヤマ場たるやなんというべきか。
 ヤマ場、で思い出したが、つい最近読んだ笠原和夫の秘法シナリオ骨法十箇条に、この映画をおれなりに当てはめてみると(……ということはまったく当てにならぬということ。映画鑑賞が趣味と履歴書の趣味欄に嘘でもいいから書けぬほどしか観てきていない)、どんな感じだろうか。おれには映画の観方も感想の書き方もよくわからんので、ものの試しだ。ご海容を願う。

  1. 「コロガリ」……いきなりの井浦新のあのシーンで何事かというショックを食らう。
  2. 「カセ」……中本の血の宿命。まさにこれが綾なす話か。
  3. 「オタカラ」……これはなんだろうか。具体的な「物」ではないように思える。血の宿命、地の縛りから離れ、自由に生きたいという思いのようなものだろうか。
  4. 「カタキ」……具体的な敵役というものはいない。やはり中本の血ということになるのか。高貴にして穢れているその血、宿命との戦い。そして、その穢れを生み出し固定した明治国家。あるいは、神話の時代からの呪い。話が飛躍しているようだが、どちらも具体的に出てくる。
  5. 「サンボウ」……ドラマの正念場、その地点、中心点の芝居。……というが、これがどこに当たるのか。一つには上に挙げた達男のシーンではあるが。あるいは、それぞれの男たちの命尽きるところか。これは曖昧模糊としてわからない。たとえば、高岡蒼佑演じる三好が、飯場に行く支度を整えて(その衣装については高岡の案からとのこと。これは正解だろう)、というところもそう言えるのだろうか。
  6. 「ヤブレ」……破、乱調。失敗、危機。……ついつい人妻を追いかけてしまう、盗みに失敗してしまう、誤って神聖な榊を伐ってしまう。失敗だらけだ。だが、もとよりこの映画の主人公はもとよりスーパーマンではないのだ。このあたりは「ヤブレ」といっていいかわからん。
  7. 「オリン」……露骨に感動的なところ、涙をさそうシーンが合ったのか? さて。あるとすれば、すべてに絶え間ない涙を注がねばならぬような気もするが、それでは曖昧すぎるというところか。
  8. 「ヤマ」……やはり達男が……か? あるいは生と死それぞれが、か? それとも死、か?
  9. 「オチ」……どれだけ悲劇が繰り返されようと、新たなる誕生、生の肯定、全肯定のメッセージが。ただし、ラストに流れる音楽の歌詞よ。
  10. 「オダイモク」……作り手の「切実なるもの」。思想、情念、美意識。……これはやはり差別という理不尽を含めた、人間の織りなす不条理の中を、それでも生きていく、人間を描きたいというところに尽きるのではないか。人類必敗の歴史を。敗れ、死ぬものの美。繰り返されること。

 繰り返されること? なにかおれは円環のようなイメージを受けた。円環の理といってもいい。これは「ここのシーン」、「ここの台詞」と引用もできないが。行って、戻るのか。これはよくわからぬ。たとえば、「高貴」と「穢れ」の表裏一体、「苦海」と「浄土」(また『苦海浄土』を思い浮かべたことを記しておこう)の矛盾と合一。そういったものならば、なにか言い表せるようだが、環についてはわからぬ。いずれまた観る機会があれば、そのことについてまた考えてみたいようにも思う。おしまい。
 ……いや、最後に、若松監督に。観て損はしなかったぜ、と。それを書いとかなくちゃな。

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……このムックも買うか。

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……たぶんだけど、笠原和夫の言う「ゲリラ戦」を、邦画が大戦略やってきた時代からずっとやってきたのが若松組だったりするわけなのかもしれず(自信なし)、上に当てはめてみたのは無理があったのかもしれず。