「なにも異常はありませんね、たいへんきれいです」
「そうなのですか」
俺は清潔な耳鼻科の診察室で、機械仕掛けで回転する椅子に座っていた。医者が俺の左の耳の穴をなにかの器具を使って覗き込んでいた。椅子が機械仕掛けで回転すると、今度は左の耳の穴を覗き込まれた。
「こちらも問題ありません」
……そんな馬鹿な。
……ぶつぶつ言うのだ。俺の左耳で、俺の左耳が。気になり始めたのは先週だった。左耳がぶつぶつ、ぶつぶつ言う。わかるだろうか、ぶつぶつと言うのだ。
これでは説明にならない。耳の中に異物感があり、耳の中でぶつぶつ音がする。ぷつぷつといってもよい。耳の穴の中に異音がする。始終鳴り続けているわけではない。たまに鳴る。仕事中によく鳴る。いくら綿棒で取り去ろうとしても治らない。
きっと、異物を耳の奥、綿棒の届かぬところに押し込んでしまったのだ。俺はそう思った。そう確信した。それを、耳鼻科で除去せねばならない。除去するべきだ。
そして……、そして、さらに耳の中をきれいにしてもらうのだ。長年、長年、毎日、毎日、綿棒を使うことによって押し込まれ、溜りに溜まった耳クソを。綿棒の届かぬところに層をなす汚物を。
そして俺は手に入れるのだ。何を? 本当の音を。それは頭のてっぺんに突き抜ける高音、みぞおちを突き上げる重低音、無限に分厚く無限に透明のクリスタルの声。この世の俺の聴いている、このくぐもった音の世界。この膜がすべて剥ぎ取られ、俺は音と相対することができる。俺はそう確信しつつ、耳鼻科に行き耳掃除をしてもらうという決断ができないでいた。だが、ようやくそのときが訪れたのだ。
……訪れたはずだったのだ。医者俺に俺の耳は異常がない、異物もないと断言した。夏には蚊やブヨなどが耳に入ることがある、などとも言う。夏には多いのです、と。
馬鹿な、この数日に限って耳に頻繁に虫が出入りするものか。ぶつぶつ言ってるときに綿棒を押しこんでも、死骸などでてきたためしもない。
「音がするというのはなんらかの理由があるはずです。様子を見ましょう」
「……はい、わかりました」
俺は890円の診察料を支払う。湿度に押しつぶされそうな街に出る。選挙カーがくぐもった声で何か言う。俺にはなにを言ってるのかさっぱりわからない。ぶつぶつ言う。どいつもこいつも、ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ……。
(職場に帰った直後に気づいたが、異音の正体は顎関節が発する微小な音だった。人と話したあとに鳴る。わざと顎を開いたり閉じたりするとよくわかる。あまりに耳の近く、あまりに小さな音なので、俺には耳の中にしか感じられなかったのだ。ひょっとしたら、睡眠障害用のマウスピースが影響しているのかもしれないが、よくわからない)