俺の「オタク」に対する負い目について

 仕事をサボってこれを読んだ。こち亀25巻の引用など素晴らしい。六研のガバだ。と、ここで俺の中でズバッとひとつながりになったことがあるので、曖昧ながらメモする。
 俺はオタクかどうか。端から見てどうだかはわからん。わからんが、俺は俺自身を「オタクではない」と見なしている。なにせ、もう漫画も読んでいないし、ゲームもやっていない。アニメは何本か見ているかもしれないが、それも去年くらいからだ。だから、いくらラブプラスにはまろうとも、ストライクウィッチーズ見て泣こうとも、サーニャの枕カバーが付録についてくること承知でアニメ雑誌買おうとも(どうしていいかわからないので、収納スペースのドアにひっかけてる。しかし、サーニャひとりだと可哀想だろ、とっととエイラの出せ馬鹿)、ちょっとオタを名乗ることに引け目がある。というか、なにかひとつについてのめり込んでいないところがある。それなのに、オタだとは言えない。むしろ、リア充のライトオタク、にわかだという方がしっくりくる。
 ……が、さっき上の記事読んでて、こち亀のところで、もうひとつの引け目を思い出した。俺は漫画を、アニメを裏切って逃げた、という引け目だ。なぜ俺は漫画を、アニメを裏切ったのか? 宮崎勤の事件の影響だ。

 宮崎勤と俺、俺と宮崎勤。中学に入ってすぐのころだったろうか。俺はたくさん漫画を持っていた。たくさんといっても、こち亀を全巻とか、三国志を全巻とか、そういうレベルでだ。単に、漫画をいっぱい持っているだけだった。だが、この事件を境に、「オタク」のレッテルが貼られてしまう。漫画をたくさん持っているということが、急にネガティヴなことになってしまう。俺がオタクというものに対して距離をおいてしまう、おきたがるのもこの影響があるのかもしれない。一方で、オタというにはあまりにも知識が、消費が少ないという負い目もある。それも確かだ。

宮崎勤について語るときわれわれの語ること - 関内関外日記(跡地)

 あれ、今回書こうとしてたこと、書いてある。すごい、誰が書いたんだ。俺か。でも、ここで述べられている前段の「距離をおいてしまう」ことへの「負い目」というのは、このときは感じてなかったと思う、たぶん。なんかこう、俺は漫画がすごい好きだったのだけれども、「あ、これはいけないんだ」みたいな、そんなところで、いや、その後も、中学、高校と人以上に漫画買って読んだりはしたものの、なんというのだろう、それで人と話すようなこともなかったというか。
 が、かといって俺の交友範囲がどうだったかというと、はっきりいってオタだった。いや、なんというのだろう、微妙なところで、たとえば遊び場はおもにゲーセンだったりしたわけなんだけど、アニメやラノベへの距離というか。どうもそのころの俺は中二病だったのかなんなのか、アニメやラノベを馬鹿にしていた。いや、しかし、そのころ深夜アニメとかないか? けど、勧められてちらっと見たラノベの文章のひどさというか、なんか、これは読めないみたいな、いや、そのころはフィクション自体を馬鹿にしていたような気もするな。新書ばっか読んでたような。つーか、その頃の、まあ具体的にいうと『スレイヤーズ』みたいなのの絵柄とノリが苦手で、これは今も変わっていないのだけれども、うーん、どうだったろうな。これも「自分がオタク的なものと距離を置いたことによるバイアス」みてえなのかな。

 まあ、これはこれとして。いや、しかし、自分が中高のころの「オタク的なもの」ってなんだったんだろう。週刊少年誌なんてのはみんな回し読みしてたしな。ドラクエとかFFとかも普通だし、それが「オタク的」ではなかったな。うーん、『ときメモ』というのはちょっとあるな。

 しかし、このあたりになると、いろいろグツグツ煮えているし、我ながらようわからん。まあ、ただ、なにかこう「おたくについて」というと、なにかしら自分の中に「他人事ではない」というような気になるところがあって、やはり世界がガラリと変わった宮崎勤の衝撃であって、そこから逃げた俺の弱さであって、なにかこう、立派なオタクになれなかったものの後悔というか挫折というか、そういうものに思いを馳せずにはおられないし、今さらそれを取りかえそうとしてるかのようなこのごろの自分についても考えずにはおられないのだ。まったく、どうも。