皇室やら王家やら言う前に、「日本」ってなによ?

 大河ドラマ平清盛』における「王家」表現問題みたいのがある。俺は今年大河ドラマを見ることにしていて、「王家」という台詞が発せられるのもリアルタイムで見ていた。見ていて、ちょっとピクッとなった。違和感、ひっかかり、そういうものである。ただ、なにかわざわざその語を使うあたり、なんらかの意図と言うか解釈があって、そうなっているのだろうとすぐに納得したわけだ。三池崇史が『十三人の刺客』で採用したリアルな時代劇登場人物の髪型づくりを『龍馬伝』に続いて採用した大河ドラマらしい、なにか歴史に対するこだわりであろうと(シエは?)。
 しかしまあ、それで、「皇室をないがしろにするのか!」というような声がネットにあって、またそれに対する反論の提出みたいな流れがあったというわけである。正直なところ、俺はなんというか、その手の吹き上がりにはどうも違うんじゃねえの? と思うわけなんだけれども、なにやらやはりはじめピクッとなったわけでもあるし、だいたいそんじゃあ皇室やら天皇という語がいつ成立したのかとか、そんなんまったく知らないから、なんつーのか、口出しできねえというか、まったく歴史について欠いている、という思いを強くした。そうだ、だいたい日本ってなによ?

「日本」とは何か 日本の歴史00 (講談社学術文庫)

「日本」とは何か 日本の歴史00 (講談社学術文庫)

wikipedia:網野善彦
 というわけで、この本を借りて読んだ。国旗国歌法のあたりに書かれたもので、死期の迫った著者の「おまえら『日本』の成立時期もしらんくせに! 浅薄な歴史観と知識で虚構の愛国をあおりやがって!」みたいな裂帛の気合がみなぎっている本である。わりかしそのあたりで「ふざけんな!」って本投げたりするやつ、なんか面倒だなって思うやつもいると思う。正直言って、俺も若干鼻白むようなところはあった。
 あったんだけどさ、でもさー、やっぱりなんかこう、内容がエキサイティング、ダイナミックで、おもしれえなって。なんかこう、あれだ、ああ、しかし、初めて触れたような気はしない。

 って、赤坂憲雄網野善彦の関係とか知らんけど、おそらくは同一方向の人の本とか読んだことあったっけ。いや、それ以前に、父の本棚には網野本がずらっと並んでいて、あの人の歴史雑談のバックベースは網野さんだったろうと。そんなんで、わりとそういう見方知ってる。それでもって、好き。
 なんつーのか、縄文人とかだってそうとうな距離移動して交易してたとか、日本列島が一個の孤立した孤島なんかじゃなくて、地方地方では大陸や南方と密接な関係があったとか、労働者、商業者としての女性だとか、被差別民についても「穢多・非人」で一括りできるようなものではないとか。そんで、やっぱりなんだろうね、神武天皇の神話にまで遡らせて、「日本」のスタート=このあたりの列島のスタートみたいにする、大和朝廷だけの歴史観みてえなのはつまんないよ、と。結局負けはしたけど、いくつもの「日本」(括弧つきね)があったんだって、そのあたりの想像はおもしろいし、そういうもんだろうと思う。
 それとあと、日本の民衆=田んぼ、稲作、農民、みたいな画一的な見方への批判。たまに「武士道は日本人の心」とかいう物言いに対して「なに言ってんだ、武士なんて数パーセントじゃねえか。俺たちのほとんどは百姓だったんだぜ」って返すやりとりなんかあるじゃん。俺なんかも至極もっともと思ってたけど、その百姓って農民とイコールでつないでいいのかよ? みたいな。そこんところおもしろい。
 いろんな意図や便宜や不備で「農」とされていただけで、大規模な商売やってるやつから、林業、水産、技能者から、わりとなんでも「農」にカウントされてだけだ。だいたい「百姓」本来の字義に農業従事者みたいな意味はまったくなく、たんに大衆、民衆、一般人みたいなもんだろうって。たんに畑耕して自給自足してたとかじゃなくて、もっと交易や商売があったんだって、そういうあたり。
 それと、世界遺産登録に向けて邁進中の鎌倉だとか、江戸だとか、なんか東のほうはまったくの未開の地、寒村、農村、漁村だったけど……みたいなのも、京都の方からの上から目線+源頼朝徳川家康の偉業を持ち上げる史観による部分が大きいとかさ。まあ、横浜始まったなは単に漁村だったんだろうが。いや、その漁村とひと括りにするのもよくなくて、明治のころ伊予のある漁村は打瀬船で三陸沖経由で太平洋横断、毎年バンクーバーまで行って漁をしていたとか、明治以前に紀州からオーストラリア沿岸まで貝を採りに行ってたとか、そんな話も出てくる。すげえや。
 ……って、まあ、なんか、俺は「そっちのほうがおもしれえな」って思ったりするくらいのもんで、とくに歴史学やら考古学なんてのはいろいろの学説があって、また日々新たなる発見があったり、発見がゴッドハンドだったり。いや、この本にも日持上人という日蓮の高弟が大陸まで渡って伝道してた証拠があるんだぜって紹介してて、でも偽作の可能性が高いことを指摘されてその旨も追記、みたいな箇所あったりしてさ。

 そういうわけで、まあ素人から細部の資料の正当性がどうだとか、あと、「百姓の多様性っつっても、割合的にはほとんどが農民で米作ってたんじゃねえの」とかの数字的な検証の面とか、そんなんはわからん。わからんが、こういってはなんだけれども、科学知らずの俺がSFを楽しめるような意味で、ぐわーっとイメージが広がるようなのは面白い。面白がってるだけ。
 それで、この列島にさ、アフリカからどんな連中が長い旅を経てやってきたかとか、そんなん考えるのは好きだし、その後もわりと海を渡っていろいろ行ったり来たりしてたとか、いいじゃねえかって。なんだろう、アイヌ琉球に配慮しての「単一民族なんて言葉はいけません」ってんじゃなくて、もっとパーッとハイブリッドの、多様性のある、わりあいオープンな感じのほうが、国としてもおもしれえだろうというか。そんなに均質的な国民性だからとか、内向きになんなよ! 諦めんなよ! 絶対できる! って、なんで松岡修造になったのかわかんない。
 だからなんか、わりと「皇室」か「王家」かとかいうと(ちなみにこの本では「日本」や「天皇」の呼称については扱ってたけど、これら語には直接言及なかった……かな。いや、漢字と数字が多いところはわりと読み飛ばすので)、それなりに根拠あんなら、ドラマであえて「王家」って言ってみるほうがいいんじゃねえかって思うわ。そんでまあ、たとえば、タイムマシンでもない限りわからんような、実際に当時の市中はあんなに汚かったのかとか、案外兵庫県知事が正しいかもしれない説とか(いや、あれは画面についてか)、そのへんに絶えざる疑問や違和感があってこそ歴史みたいなもんは死なないところがあるし、歴史が死なないほうが、過去が今に活きてくるんじゃないかとか、そんなんあるんじゃないかと思った。おしまい。