インターネットにはゴミが少なすぎる

 人生とは何ぞやということは、かつて哲学史上の主題であった。そしてそれに対する種々の解答が、いわゆる大哲学者らによって提出された。
大杉栄 ―1920年『労働運動』六月号掲載 以下同

 昨夜はひさしぶりにスリープスプリント、すなわち睡眠時無呼吸症候群者が睡眠時の呼吸を改善するためのマウスピースを装着し忘れて寝てしまった。おまけに電気もつけっぱなしで、寝起きの気分は最悪だった。さらに寝違えていて、右首から肩にかけていくらボルタレンACゲルを塗っても引き攣ったような痛みがある。
 今日は少しジョギングするか、すばらしいCOLNAGO ACEに乗るかしようと思っていたのだが、それもキャンセルだ。いいいいわけができた。元旦に犬を見殺しにしてから自転車に乗っていない。ジョギングも医者に止められているから、といういいいいわけに乗ってしまったままだ。たまに走るくらいなら許されるはずだ。それでも、体重の方は55kgくらいで安定している。2011年3月ころからの急激な増加をべつにすれば、それほど上下しなかったのだから、一度下げてしまえばそれを維持できるのかもしれない。ただ、わずかに感じられた筋肉は減少している実感はある。
 根岸の梅も咲いていないだろう。結局、すばらしいストライクウィッチーズのラジオを聴いたり、うだうだと撮りためていたアニメを見たり、一週おくれのNHK杯将棋トーナメントを見たり、くそ分厚い小熊英二の本を読むなどしてすごした。寝違えた身体で読むには不向きだ。

 しかし、人生は決して、あらかじめ定められた、すなわちちゃんと出来上がった一冊の本ではない。各人がそこへ一字一字書いて行く、白紙の本だ。人間が生きて行くそのことがすなわち人生なのだ。

 土曜も出社していたのだから、日曜は安息していいだろうといういいいいわけができた。今度のアパートは一階で、ドアの向こうに少し段になった土の斜面があって、適当に種をまいたりした。そこには、実生から育てて鉢植えにしていたイヌマキや、ホームセンターで買ってきた安いクロッカスの球根を植えたりしている。もっと勝手にいろいろ埋めて、発芽させてやろうと思う。日当たりはえらくわるいのだけれど。

 観測範囲の狭く、主語の大きい話をするが、インターネットにはゴミが少なすぎる。もっともっとゴミが多くていいんじゃないかと思う。ゴミはそいつの持つむき出しの憎悪や恐怖、不安だ。裏打ちしているのは無教養や誤解や偏見や強迫観念でいい。あらゆる階層のあらゆる程度の人間が、それぞれ各人の最小の主語で、それぞれに悲鳴や怒号をぶち込んでいくべきだ。賢い人、優しい人、正しい人から嘲笑われ、見下され、批判され、奴隷の鎖自慢呼ばわりされ、愚かさゆえに同情され、精神病理学的に解析されようとも、あるいは、さらに下からの目線で憎悪されようともだ。
 なんでもいいからぶち込んでいくべきだ。そうでないと、インターネットの人生・生活カテゴリが、十年一日ライフハックかお手軽レシピ、不動産屋との敷金トラブル解決法で埋め尽くされてしまう。いや、お手軽レシピはたまに役に立つからいい。インターネットの人生・生活カテゴリが、学のある、意識の高い人間の、前向きな言葉で埋め尽くされてしまう、それに対する違和感。

 労働運動とは何ぞや、という問題にしても、やはり同じことだ。労働運動は労働者にとって人生問題だ。労働者は、労働問題というこの白紙の大きな本の中に、その運動によって一字一字、一行一行、一枚一枚ずつ書き入れて行くのだ。

 俺は頭の調子がおかしいし、この世界を見る色眼鏡がひどい色をしているのかもしれない。しかし、毎日毎日、寿町界隈で見るあの悲惨さ、三万人の自殺者、それに見合った声がインターネットとかいうところに見られるのだろうか。なんか足りなくね?
 もちろん、俺の目から見て悲惨な情況にある人間が、俺の考える形態での憎悪や恐怖を抱いているとか、偏見や強迫観念があるとか、そんなことは決めつけるつもりはない。俺が代表者きどりや代弁者きどりで、「みんなで声をあげよう」と呼びかけてるわけでもないし、本当に悲惨な人間は声をあげる余裕はないかもしれない。
 ただ、極端な話をすれば、年収一億のやつがなにかの苦悩を持っていたら、それをぶちまければいいし、自殺寸前のやつはそれをぶちまければいい。それはもう、ズタズタにされるかもしれないが、そんなもんどうでもいい。人間、この社会とかいうところの中にいるかぎり、おおよそ誰かの悲惨の上にあぐらをかいて自分は不幸でございって顔をしているようなものだし、前後左右上下から無知や無教養や倫理観のなさを常に糾弾されざるをえない。だから、俺だって上から下からおまえを攻撃するかもしれないし、そもそも関心を持たないかもしれない。でも、勝手にやれ、勝手に生きろといいたい。

 観念や理想は、それ自身がすでに、一つの大きな力である。光である。しかしその力や光りも、自分で築きあげて来た現実の地上から離れれば離れるほど、それだけ弱まって行く。すなわちその力や光は、その本当の強さを保つためには、自分で一字一字、一行一行ずつ書いて来た文字そのものから放たれるものでなければならない。

 まあ、俺は俺自身に光のない人間だから、どうしても、俺同様に暗くて、グロテスクで、倫理的でなく、絶望している、ラーメンが獣臭いやつを見ると安心するという面はある。ラーメンだけに麺がある。いや、そうあってほしい。そうあるべきだという歪んだ願望だろう。世の中、意識の高いやつばかりであってたまるか。ろくでなしで、わけのわからんのがたくさんいるんだ。そういう人間の口を塞いでいないことにしたいのかもしれんが、知った話か。
 ……とかいいつつ、自分の中に、意識の高い、教養のある、人権意識や優しさのある人間に媚びへつらい、擦り寄りたいという気持ちが皆無かといえばそうでもない。いや、露悪的に書きすぎた。自分の中で二極化とまではいかないが、なんらかの分裂があって折り合いがつかない面がある。あからさまな差別や人権への無理解を見ると胸糞悪くなるのは確かだ。だが、一方で、それが大勢に批判されているのを見ると、同時に、何糞とも思うのだ。なぜか、言われている側へ感情移入して。なにか、犯罪者や加害者の側に行くのと同じ心情、とかいってしまうと、複雑な形での差別観が俺に根深く存在しているのかもしれない(有り体に言えば、バカをバカにしているという)。
 あるいは、俺はひどい労働のありように批判的だが、俺自身が俺の生活に拘泥するためにひどい労働をしていて、結局は世の中のひどい労働のありように加担している一人でもある。わかっちゃいるが、そんなのわかってもどうにもならない。それ以前にわかっているかもわからない。自分を客観視する自分が信用できない。ただ、自分の生活や体験から離れすぎたところのご高説も信用できない。
 人間がものごとを理解する力なんてものは、100mを何秒で走れるかってくらいのものだし、理系の科学だろうと、社会科学だろうと、経済だろうと、もうこの時代、どんだけ脚力なきゃついていけねえと思ってんだと。それでも、脚の遅いやつだって、なんかわからんが、走らされてるんだよ、社会の中で。お前は周回遅れでいいから走ってろ。ただし、目障りだから見えないところでな。それがいいのか? 俺にはわからん。
 わからんから、とりあえず俺はまたゴミをこうやってぶちまけたし、クソでも内臓でも晒してやる。物好きは見ろ、見たくなければ見なかったことにしろ、叩きたい奴はたたけ、太鼓もたたけ、笛も吹け。誰も見ていなくたっていい。俺はもう明後日にいて、まったく関係ないことを考えている。たとえば、福圓さんがきっかけで見始めたプリキュアの、過去のシリーズにあたってみるかどうかとか、すごく重要なことを。

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 ……すごい、言いたいことはもうとっくに言ってたのに、書いたのあんまり覚えてなかった!

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 大杉栄の文言はこの本からの孫引き。この内容にあってるとも思えないが、なんとなく。