『フルシチョフ回想録』を読む

フルシチョフ回想録 (1972年)

フルシチョフ回想録 (1972年)

 いやね、べつにおれそんなにロシアの歴史やソヴェートの政治に興味あるわけじゃねえし、エヴノ・アゼフとボリス・サヴィンコフ、あるいはラヴレンチー・ベリヤ個人が好きなだけであって、べつにフルシチョフまでは、みたいな、そんなんはあったんだよね。でも、Wikipedia先生にこんなこと書いてあって、思わず手にとってしまったんよ。

回想録を出版したアメリカのタイム社は、軟禁状態にあったフルシチョフ接触するのに、仲介者を通さなければならなかった。回想録がフルシチョフ本人が書いたものであることの確かな証拠が欲しいタイム社は、真っ赤な帽子を仲介者に預け、フルシチョフ本人がその帽子をかぶっている写真を撮影して送るようにと依頼した。帽子を届けられたフルシチョフは、その帽子が贈られた意図を知ると発案者のウイットに敬服し、事情を知らない家族が反対する中、進んでその派手な帽子をかぶって写真撮影にのぞみ、家族の反対を煽ってむしろ面白がっていたという。

 これってあれじゃん、「ナイジェリアの手紙」(詐欺師を騙してバカにして遊ぶネットユーザーたち / そして騙されてバカな写真を送る詐欺師たち | ロケットニュース24……なんかちょっと弱いものいじめみたいで微妙な気持にもなるが)みてえじゃん! って。
 でもって、まあなんだ、ベリヤとかも出てくるだろうしって、適当に読み始めたわけだ。そうだ、適当にだ。なにせこいつは、ある特定の状況下で特定の人物が書いた特定の本だからだ。……って、たいていの本はそうか。まあいい、おれみたいに「高校の世界史B」までの知識すら危うい人間が鵜呑みにして読んじゃあいけない。さらにいえば、そんなこと当たり前だってんで、アメリカの出版社が丁寧にも「ここでフルシチョフはこんなこと言ってるが(あるいは言ってないが)、実際はこうだった」とか「逆から見たらああだった」とかいうのも、やっぱり冷戦下のあれだろ? って話だし。それに、さらにさらに言えば、昭和47年の本だぜ。その突っ込みすら古くなってることだってあらあな。
 けどね、まあしかし、フルシチョフが生で目にしたスターリンだのベリヤ(ベリヤに関する記述には「警戒」の二文字が本当に多い)だのエリザベス女王(Tu-104に興味津々だったらしい)だのの印象ってのは、やっぱりおもしろいところはある。

みこみこにしてやんよ

 そんで、ベリヤを除いて一番興味深く思えたのはミコヤンだな。みこみこにしてやんよって具合だな。どんな具合だか知らんが。カフカースの限界を越えて私はきたのか?

ヨシフ・スターリンからニキータ・フルシチョフの時代をしたたかに生き延びた、希有な古参のボリシェヴィキとして知られる。

 『回想録』には、こんな風に生き延びた話が出てくる。「スターリンの晩年」の章だ。

私は、スターリンが二十四発の弾丸で二十四羽のうずらを仕留めるどころか、まるで射撃などできなかったという事実を、この目で確認したことがある。かつて近くの別荘で食事をともにしていたとき、彼は銃を取って外に出ると、すずめを追い払おうとした。彼にやれたのは、ボディーガードをつとめていたチェカーの人間の一人を負傷させたことだけだった。別のときには、彼は銃をいじくりまわしていて、暴発させ、あやうくミコヤンを殺してしまうところだった。スターリンはミコヤンの隣に座っていたが、飛び出した弾丸は地面にあたって砂利をはねとばし、テーブルとミコヤンに石と砂の洗礼を浴びせた。だれも口を開かなかったが、全員がぞっとしていた。

 ……って、こういうんじゃねえんだ、こういうんじゃ。
 例のベリヤ拘束の会議のときだ。全員がベリヤ有罪の発言をしたあと、最後がミコヤンだった。

……ほかの同志たちも同じ原則を強調したが、最後に発言したミコヤンだけは例外だった。彼は会議の前にわれわれが話しあった際、私にいったことをくりかえした。すなわち、ベリヤはわれわれの批判を肝に銘じ、自己変革をするだろう。彼のケースは絶望的なものではない。彼は集団指導部にとってなお役に立つ存在になりうるのだ、と。

 言うまでもないが、ベリヤとミコヤンの関係といえば浅からぬものもある。だが、事態が事態、情況が情況だ。ここで、これを言ってのける。けど、結局フルシチョフはその後の土壇場で動揺を隠せないマレンコフに対するいらだちを書き残しているくらいだ。して、ミコヤンはこのままジューコフやモスカレンコが部屋になだれこんできても、ベリヤ復権がありうると考えたのか? あるいは、この発言が自らを不利な立場に追い込まないと思わなかったのか? すべては計算づくだったのかどうか……。
 あるいは、第二十回党大会前だ。

 予想できたことだが、ヴォロシーロフとモロトフとカガノヴィッチは、私の提案にあまり乗り気でなかった。記憶によれば、ミコヤンは私を積極的に支持しなかったが、私の提案を阻止するようなこともしなかった。

 これである。リスクヘッジの天才だろうか。よくわからない。
 しかしまあ、それ以前に、ベリヤによってセルゴ・オルジョニキーゼみたいに消されず、よくもまあ生き残れたものだと(コスイギンが生き残った方が不思議だ、不思議だとフルシチョフアメリカの出版社も書いているが、そこまではしらん)。

……かつてモスクワである記録映画を見たときのことを思い出すが、それにはアナスタシー・イワノヴィチ・ミコヤンがわが国のパキスタン大使としてすっかり着飾って写っていた。彼の姿を見て、われわれは腹をかかえて笑った。そのありさまはまったくヨーロッパの旧弊な紳士といったところだった。外国の外交官が大使というものに要求する風変わりな装いはアナスタシー・イワノヴィチに必ずしもそぐわないわけではなかったともいえよう。

 フルシチョフらが、平服でエリザベス女王に会いに行ったエピソードでちょっと触れられているところである。ミコヤンの本などあれば読んでみたいが、検索しても出てくるのは弟の業績であるMiGのプラモデルばかりであって、興味がないわけではないがちと違う。ちなみに、ミコヤン自身が曲芸飛行機に同乗してスターリンの怒りを買った話と、息子がパイロットで戦死したという話も出てきたが、空飛ぶ一族でもあるわけか。

して、フルシチョフについてはよくわからず

 ところで、おれが読んだは『フルシチョフ回想録』だった。だから、自伝ではないといえばそうだろう。だが、なんつーのか、あんまりフルシチョフ自身がどういう人間かということは……わからん。わからんし、書いていても……信用できない、というか。やはり、彼がどうやって成り上がってきたか、権力闘争を勝ち抜いてきたかというあたり、ちょっと言えねえなってことは書いてないのだろうし、ちょっと言えねえことばかりなのやもしれず、なんとなくわからんのだ。まあ、今風にいえば「地頭のよい人」だったのだろう。それももう、抜群に。そうじゃなきゃソ連の指導者にゃなれんだろう。ただ、あれこれの判断やらなんやらは、フルシチョフを評した何百冊もの本を読まねばわからんだろうし、そうする気もない。

最後に気になったのは……

 ああ、あと、この本図書館から借りたんだけども、本編最終章の最後の最後、マヤ・プリセツカヤ(最近はwikipedia:マイヤ・プリセツカヤって表記なのかしらん)について述べているんだけど、彼女が海外公演に同行させてほしいって手紙をフルシチョフに出してきて、それを幹部会にかけて……ってところでページが一枚きれいに切り取られてるんだよ。531、532ページが。どうなったんだよ、結局? つーか、これはKGBの仕業か? 警戒、警戒! ……ってまあ、プリセツカヤは海外に出ることができて、アシュケナージは結局ソ連国籍を捨てたとか、調べりゃわかるんだけどね。

 そんでまあ、最後にフルシチョフの言葉の一つでも引用して終わるか。

 合衆国の支配層は、いわゆるアメリカ的生活様式を「自由世界」の典型だという。だが、それはどういう種類の自由なのか? それは、搾取する自由、盗む自由、余剰があるのに餓死する自由、生産能力が遊んでいるのに失業する自由である。合衆国における自由とは、独占資本が働く人びとを抑圧し、二党制度で人びとの目を欺き、軍事ブロックにおいては同盟国に自分の意志を押しつける自由にほかならない。

 さて、おれはこの言葉に反論するほどの知恵も知識もない。かといって、異議なし! といえるほど、ソ連の自由も信じちゃいねえんだ。……って、いやしかし、21世紀、冷戦も遠くなりにけりな現在、オバマ再選がどうだとかいうときに、フルシチョフのこと考えてるおれはなんなんだろうね。まあ、どうでもいいさ、まったく。

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