Always Loved a Work?

 ときに自分の能力につりあっているという質と量のしごとというものがあって、それにあたるということは人を悪くない気持ちにさせる。質は高すぎてはいけないし、低すぎてもいけない。ただし高すぎるよりは低すぎるほうがいい。量は多すぎてはいけないし、少なすぎてもいけない。ただし、食べていけるという前提において多すぎるより少なすぎるほうがいい。人々に適した職が適した量だけ振り分けられて、各人の能力につりあって悪くない気持ちにさせる社会であれば悪くない。ただしその適切な方法はどこかの誰かが論じたり、解明したと言っているかもしれないが、実現されているかというとおおよそあやしい。仕事をするのとしないとでは、しないほうがいいという人もいるし、そういう人間は適当に食っていけるだけの用意を世界はするべきなのだけれども、そのような用意はまだされていない。人より二倍三倍働きたい人間は好きに働けばいいと思うけれども、その報酬が人の二万倍三万倍ではいささかおかしいかもしれない。いつかの時代はあるていど適切な質と量の仕事がより多くの人に割り当てられる可能性が高かった時代があったかもしれないが、それはその次代固有の諸条件が織りなした偶然といっていいかもしれない。その偶然の中で偶然にも適切な質と量の仕事をこなしつつ生きて死んだ人間は幸運である。このごろといえば適切な質と量の仕事が各人に割り振られる可能性が、いつかの時代に比べると少なくなっているかもしれない。ある人々は暗い顔をして向精神薬とカフェインの錠剤をまずい缶コーヒーで流し込み、荷物よりもひどい満員電車に詰め込まれている。身の回りの人々のことを考えてみる。自分と同時代の彼ら彼女らのことを考えてみる。……人々には適切な量の知人や友人というものがあるらしいが、それがゼロ人という人間もいるものである。ある程度見知った人間の家族、あるいは自分の親戚に限ってみよう。9人くらいの同世代人をサンプルにしたところ、正規雇用で働いているのは公務員が一人、上場企業勤務が一人。あとは、ニートニート、非正規雇用、非正規雇用、非正規雇用、専業主婦? 起業家? だった。わたしはといえばこのごろめっきり仕事の減ってきた正規雇用者であって、あと二ヶ月か三ヶ月で無職になる可能性も少なくない。ときに自分の能力につりあっているという質と量のしごとというものがあって、それにあたるということは人を悪くない気持ちにさせる。ただし、仕事をするのとしないとでは、しないほうがいいという人もいる。わたしは働かないで生きるすべを一つ知っていて、サマージャンボ宝くじを連番10枚購入した。わたしは労働から解放されて、誰にどのような仕事が割り振られようが、誰かに割り振られる仕事があろうがなかろうかまるっきりどうでもいい世界に行く。人より二倍三倍働きたくない人間は好きに働かなければいいし、その報酬が人の二万倍三万倍であってもおかしいはずがない。