人格と病気? 『双極II型障害という病 改訂版うつ病新時代』を読む


 おれは精神科だか心療内科だかで「双極性障害じゃね?」と診断された。セカンド・オピニオンはない。処方された薬を飲んで生きている。おれという人間は「お薬手帳」に貼られた処方薬のシールの厚みにある。
 なぜおれは双極性障害なのか? あるいはそれによって生み出されたかもしれない不安に魂を乗っ取られて生きているのか? なぜそのような遺伝子がプールの中を泳いでいられたのか? その疑問について、進化心理学というものに興味を持った。何冊か本を読んだ。いくらかの答えはあったように思える。とはいえ、脳のモジュールなどという話になると、当初目的から離れていくような気もする。
 そこで、初診もとい初心に戻りそのものズバリのタイトルの本を読んだ。内海健双極II型障害という病』。表紙、かっこいいけど怖い。

 ……で、この本、おれにとって「これだ!」とか「そうか!」というよくわからない知的興奮のようなものを味わわせてくれた。くれたが、著者が「最初勘違いして精神科医向けに書いてたわ」みたいな代物で、ややもするとわけがわからなくなる。それでも、アリストテレスの昔から始まり、現代、過去、フューチャー、そんな中でのこの病の位置づけをしようとするスケールというものにとりあえず圧倒される。圧倒されるはいいが、やはりややむつかしい。ややむつかしいので、とりあえずこのエントリーでは一つの点についてだけメモする。

病気と性格について

 おれが自分の行きつけの医者によく言われるのは「性格は治せない」ということだ。おれはそれについて「はぁ」と答える。答えるものの、外交的で活気に溢れ、金持ちになれるような性格になれる薬を処方してもらいたいと思っている。不安や心配と無縁で、幸福感をひとときでも得られる薬を処方してもらいたいと、いつも思っている。え、そんなのは関内の街角で買えるって?
 というか、病気だか障害だか込みで「おれ」なのではないか。サクッと「性格」(パーソナリティ・ディスオーダー含む?)と「病気」を切り分ける医者の物言いに多少のひっかかりを感じてはいたのである。
 して、本書を読むに、やはりそこはスパッと切り離されて考えられている。いや、スパット切り離されねばよくないと書かれている。

(遷延うつ病と)似ている点は、「人格と病気の混交」とでもいうべき状態が起こることである。病気なのか、性格なのか、病前を知らない者には判別ができないような様態となる。BPII(引用者注:双極性2型のこと)ではその進行は、一旦始まると、驚くほど速い。人格が病気の侵食をうけ、ないまぜとなったような状態に、見る間に陥っていく。回復を図る主体であるはずの人格と、治療の対象である病気が混合すると、はなはだやっかいな病態となる。
「第三章 臨床プロフィール」p.073

当たり前のことだが、双極II型障害境界性パーソナリティ障害は、疾患が違う。前者は気分障害であり、後者は人格障害である。いわゆるstate(状態)とtrait(特性)の違いがある。それゆえBPIIの場合には、状態依存的であり、気分障害が治れば消失する。ただ、すでに述べたように、一旦demoralization(引用者注:「人格水準の低下」)が発動すると、病気と人格が強く結びつき、容易には回復しない様態となる。
「第三章 臨床プロフィール」p.074

 フハッ、「回復を図る主体であるはずの人格と、治療の対象である病気」か。心の病などというものは脳みその化学的不均衡が原因で、そんなものは機械を直すのと究極的には変わらんなどと思っていながら、きちんと突き放せていなかったではないか。そんなふうに思ったのだ。人格があり、病気がある。もしおれに虫歯ができたとしても、道具かなにかが壊れたくらいにしか思わない(歯医者に行くのは死ぬほど嫌だが)。だが、強迫性障害(最初そう言われた)とか双極性障害と言われれば、全人格的なものと思ってしまう。主体と対象と切り分けられぬと、どこかでそう思ってしまう。そうだったのか。
 ……という点で、おれは立派に人格と病気が混合したやっかいな状態にあるのではないだろうか。よくわからない。そもそも、回避性パーソナリティ障害はあるかもね、と医者に言われたおれの人格。どれがstateで、どれがtraitか? おそらくおれ一番の問題であろう強く確固たる希死念慮はどっちなんだ。見当がつかない。
 いや、医者によればおれが抱える強い不安というものは、おれの社会的、経済的情況からくる「当たり前」のものらしい。そりゃあそうだろう。金もスキルも人脈もなにもない人間が、ろくに給料も支払われないで生きていれば不安になる。となると、それは真っ当な反応、stateか。ステータス異常か。本来は医者の領分ではない。抗不安薬やα・β遮断薬を出すよりほかあるまい。かといって福祉の領分に入るほどでもない。すべてはおれの無能に帰する。ポンコツに生まれ、だらだらと生きてきてしまったツケを払わなければならない。自死か路上か刑務所か。
 と、考えるのはおれのtraitなのか? おれはいつから死にたかった? 二年くらい前か? もっと前だ。おれはいつからホームレスになると強く予感するようになった? 二年くらい前か? もっと前だ。おれはいつから刑務所に……。
 この障害の病前性格は捉えにくいものという。

 とくに双極II型障害の場合、性格と病気が相互浸透する傾向にある。このことは、しっかり押さえておきたい。
 ここでわれわれは再び、アキスカルのスペクトラム的発想を見出す。つまりは性格ないし気質と疾病の連続性である。双極II型障害は、メランコリー型のようなリジッドな病前の型をもたないのであり、気質と疾病の間に明確な断層を認めるのが困難である。だが、アキスカルのように、クレペリンの時代へ回帰するだけでよいのだろうか。両者を単なる病理の濃淡に還元して、それですませてよいのだろうか。それではクレッチマーの古典的発想と変わるところはないだろう。
 大切なことは、気質のもつ両義的性格である。一方では、各人の気質とは、本来生かすべきものである。つまりは健康の原理でもある。他方、それは同時に、疾病へと進展する原理をどこかに内包している。つまりは"morbid"(病的)なものが内在しているものでもある。
 こうした両義性を踏まえるなら、双極II型障害に相対するに際して、われわれは一層身軽な視点移動のための準備をしておかなければならない。つまりは、疾病の中に気質の病的な発展を捉えると同時に、その同じ疾病の中に健全さを、さらにはある種の人間的心理をも認める、そうしたしなやかさである。
「第五章 同調性の苦悩」p.138

 うーん。……と考えて二十分くらい経った。おれにはアキスカルもクレペリンクレッチマーも知らんが(いや、本書でさらっと紹介されているのだが)、その、なんというのだろうか、軽くスペクトラムと言ってすませばいいわけでもない、のか。障害の中にある健全さとはどんなものか。それはおれにすらあるのか。
 著者はこの障害について、「大きな物語が終わった」とか、「ポスト・モダンの」といった時代背景を示唆する。もし、おれが生まれてきた時代がもう少し前なら、あるいは後なら。そんなことも考え始めると止まらぬ。

この病の当事者は、知る力と、知ることによって自らをコントロールする力に長けている。
「改訂版あとがき」p.242

 果たしてどうだろうか。さて、いくらかは頼りにしている主治医によって、抗鬱薬からのストンでデッド・エンドは今のところ避けられているが、マイナスに突入している自己評価の低さ、破滅的な滅亡への道。つまるところ、おれはいつまで生きることを許されているのか。そこのところはどうなんだ。単なる自己愛の裏返しじゃないかと言われれればそうやもしれぬ。けれど、今日のところは嫌な予後しか浮かばないぜって言って終わりにする。

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 が、ここで思い返せば、おれに処方された抗うつ剤は、双極性障害にはアウトの三環系抗うつ薬でも第二世代のそれでもなく、レスリンだということだ

 ……これは医者の慧眼だったのかな?