セリーヌ『苦境』他を読む

セリーヌの作品 12 苦境他

セリーヌの作品 12 苦境他

 セリーヌの『苦境』他を読む。セリーヌの政治パンフレットはひたすらにユダヤ人攻撃するばかりといった面もあって、わりと普通にうんざりさせられるものだった。しかし、この全集12に収められてるものはあんまりユダヤユダヤ人言ってなくて、結構ハッとさせらるような部分も少なくなかった。『虫けらどもを…』でうんざりして読むのをやめてしまうのは惜しいというところか。

 人間は、ある日、自分が虚無を前にしてひとりぼっちに、完全にひとりぼっちになるという、絶対に耐えられないあのものすごい恐怖を味わっているらしい。えらく度胸のある連中や肝っ玉の太い連中も、とにかく、古くさくて人受けのする月並で試験済みの、なんらかの仕組みにしがみついている、そんなものが連中を安心させて、連中を穏当で世間の認めているものや良識ある方々の群に結びつけてくれるからだ。
「苦境」

 方や〈この世〉の地獄に苦しむ連中、片やブルジョワ、どっち側にも、つまるところただひとつの考え方しかない、金持ちになることか金持ちのままでいるってことだ、まったく同じこと、表裏一体、同じお金、同じ貨幣、本音にゃいささかも違いなし。何をなすとも腹満たすためってことにこり固まった御一党だ。すべてこれ胃袋のため。ただ人並以上に欲が深かったり、血の巡りがよかったり、渋ちんだったり、怠け者だったり、抜け作だったりするのがいるってこと、ついてる連中とついてない連中さ。
「苦境」

貧しい人々の足許に細目に口を開けているのは〈破滅の深淵〉だ、あらゆる怪物どもが鎖を解かれ、腹をすかし、魂までもずたずたに引き裂こうと待ち構える〈この世の終り〉だ。
「苦境」

 民衆を放棄させるには貧困じゃ事が足りない、圧制者の苛斂誅求でも、民衆は決して蜂起しない、すべてに耐える、飢えにさえもだ、自然発生の暴動なんてありっこない、こういう連中を蜂起させなきゃならんわけだ、何を使えって? カネさ。
 金なきところに革命はなし。
「苦境」

 セリーヌの人間観というか、世界観というか。とても悲観的だが、地に足の着いた悲観。作家として以外に、貧しい人々を相手に無料医師(赤ひげ先生?)をしていたところから来ているのか。それもあろう。いずれにせよ、そのリアルがあるからこそ『旅』もあり、時代をこえて掴みかかってくるところがある。

〈平均化革命〉ってのはどうだ!
 あんた方どう乗りこなすかね、この載星馬を?
 私なら国定給与を日給で上限百フランと定める、まだ生き残ってるブルジョワにも同額を与えるが、ま、金利の残りをやるってことさ、これで新体制になるまで誰ひとり飢えさせずに持って行けるってわけだ。何人たりとも百以上は取らせない、独裁者を含めてだ、国定給与、国民全員百フラン、剰余はすべて〈国庫〉に入る。他人様の物が欲しくてしょうのない連中の根本的治療法だ。独り者に百フラン、夫婦者に百五十フラン、三人の子持ちにゃ二百フラン、いや、ジャリ三人目からは二十五フランの割増しといこう。
「苦境」

 こんなことも言っている。おれは無知なので当時の百フランが今の日本でいったらいくらくらいかわからんが、これは大胆な……原始的な共産主義のようなものだろうか。ベーシックインカムとはちと違うか。しかし、そんなところがある。そういうところはおれの好むところであって(その不可能さゆえに?)、いいなあと思うのだ。

……大掛かりな若さの切断者たる学校が、子供たちの翼を、大きくさらに大きく拡げてやる代りに、切り取ってしまうからだ! 学校はどの子供だってうんと褒めてやったりはしない、切断するんだ、去勢するんだ。学校は翼のある人間や、踊る魂を産み出したりしやしない、学校は人目につかんドブの中にころがってる食い物とか、油じみた汚水に塗れたごみ箱みたいな、もはや這いつくばることにしか興味を持たん、卑屈な人間を製造してる。
「苦境」

 そしてこの学校というものの否定。まったくセリーヌ万歳といったところ。まったくの同感だ。わかってるぜ、そいつはあんたの言うとおりだ、っていいたくなる。学校に適応できる人間とできない人間というのがこの世にはあって……表面上適応してきたけど、しらないうちに去勢されちまってるなんてのも往々にあるだろうし……ともかく、学校ってのは巨大なクソにしか過ぎない。いい学校、悪い学校、そんな区別なんかありゃしない。すべて悪だ。そうに違いない。

 

機械ってのは害毒を撒き散らかすことなんだ。ものすごい失敗だ! なんたる嘘っ八! なんといい加減! どんなによくできた機械だろうと、誰ひとり解放した試しはない。そいつはじつに無残に〈人間〉を愚かしくするんだ、それだけのこと……
「メア・クルパ」

 「メア・クルパ」(mea culpa)は「わが罪により」あるいは「謝罪」のラテン語、らしい。共産主義、あるいはソヴェート批判の一篇。この機械批判は反対の陣営にあるところのアメリカ式大量生産、フォード社への批判にも通じるだろう。セリーヌは『旅』で左翼陣営に積極的に評価されたらしいが、人間の作るソヴェートに夢なんて見なかったし、実際に見てきて心底うんざりしたんだろう。もとからうんざりしていたんだろう。そう思わせる。

……すっかり乾涸びちまった書き言葉、その書き言葉に感動を甦らせたのがこの私なんだ!……そうなんだ!……大した仕事なんだぜ、本当に!
「Y教授との対話」

―ジャンルの法則なのさ!《私》なくして抒情性は存在しないんだよ、大佐!
「Y教授との対話」

―私の三つの点々(トロワ・ポワン)は絶対に欠かせないのさ!……欠かすわけにはいかんのだ、畜生!
「Y教授との対話」

 「Y教授との対話」では自分の文体などについてこんなふうに語っている。jeなくしてリリスムなし。そしてトロワ・ポワンは欠かせない。日本語訳だと三点リーダー二個になっちまうがね。

 ミラボーは獅子吼し、ヴェルサイユは震駭した。ローマ帝国が〈崩壊〉して後、かつてこれほどの嵐が人間を襲った例はなかった。激情は怒濤となって天に冲し、数多の民族の力と熱狂がヨーロッパに沸き起こり、その腹を引き裂いた。
「ゼンメルヴァイスの生涯と業績」

 さて「ゼンメルヴァイスの生涯と業績」。カート・ヴォネガットがこの一作(学位論文だが)をもって戦後セリーヌ擁護をしていたような気がする。しかし、これが論文とは思えぬ。書き出しからしてこの調子で、トロワ・ポワンもなしに大仰に、多分に文学的に、あるいは講談的(講談を聞いたことはないが)に話が展開していく。ゼンメルヴァイスはこんな人。

 まあ、Wikipedia読んだだけでもなかなかの壮絶さだ。ただ、この壮絶な医師、妊婦たちの命のために理不尽と戦い散った医師について、訳者解説にこんな文が。

訳者がゼンメルヴァイスについて何度か質問状を送り、その度ごとに、親切な回答を寄せて下さったブダペストのゼンメルヴァイス歴史医学博物館館長のヨーツェフ・アンタル博士はその返信の一つで「セリーヌの論文は間違いだらけで、学問的に全く無価値です……」と言い切っておられる。
「訳者解説」

 言い切っておられるか。たしかにWikipediaと書いてあることが違う。というか、Wikipediaを信用するならば、セリーヌ先生、調子に乗りすぎてる感がある。が、一方で、「世界を患者とする医師」である文学者セリーヌの、ゼンメルヴァイスに我我が身を託すかのごとき心境というものもうかがえるようで興味深い。そこんところにセリーヌの魂の、一貫したなにかがある。もちろん間違った方向から笛を吹いちまったのもたしかだし、大きな罪ともいえる。いえるが、その割には戦後の死刑判決をも許され、再評価されるところに、その魂を人々が見ていたともいえるかもしれん。自己諧謔……ミスティフィカシオンの使い手たるセリーヌは、そのあたりを大仰に喧伝するか、あるいは自笑するに違いないのだけれど。

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