おれの十月が終わる

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茎と葉に囲まれた部分の切り抜き精度というか、距離の把握がまだまだ甘いiPhone XSのカメラ。

は、いいとして、十月が終わる。おれの今年の十月はなんだったのか。それは九月との対比においてのみ語られる。

九月、すなわち、抗精神病薬セロクエルに変え、医者いわく効きが足りなかったせいで、双極性障害II型による、かなり重い抑うつ状態、鉛様麻痺、心身症、倦怠感。そして、躁転による異常な焦燥感、緊張感、意識の空回り、歯の食いしばり(これがバカにできないほど負担だった)。その両方を味わった。

十月になって、薬を従来量のジプレキサに戻した。戻す間の空白期間を埋めるため、医者の指示もあって最初は倍量飲んだ。そうしたらどうだろう、本当に一日で世界が変わった。歯の食いしばりの緊張はとけて、むしろポカンと口開けるくらいになり、頭の中の空回り、カーっとしてるけど手が動かないということもなくなり、つまりは、かつての、薄らぼんやりとした、能無しの、軽い抑うつ状態にあるおれが帰ってきたのだ。

これは、ひとつの衝撃ではあった。九月の、かつてないほどの心身症には参ったが、「薬が合わないのだろう」と思っていた。が、実のところ、それは「薬が足りなかった」のであり、あの酷い状態、躁と鬱の双極がおれの実態だったのである。その証拠に、薬を戻しただけで、おれは気分の安定を取り戻した。低空飛行だが、取り戻したのである。

正直、九月のおれという生きものは、おそらく現代日本社会を生きることができない状態にあった。おとなしく自死する以外……いや、自死すら困難な状態にあった。あまりにも生きられない。働けないのはもちろん、それ以外の日常生活も困難だった。

十月のおれは、それなり生活を取り戻した。労働を取り戻した。おれの十月はそういう十月だった。

が、しかし、おれの実態があのようなものであり、ジプレキサという細い糸によってなんとか最底辺で成り立っているものと知ったということでもある。薬が飲めなくなったり、効かなくなったりしたら、あのようになる。それはひどく恐ろしいことでもあり、生きることが虚しくなることでもある。すみやかな死を促されているようでもあり、破綻の予感がにじり寄ってくるようでもある。

生きていてはいけない生きもの。

生きようと思っても生きられない生きもの。

救いはない。

少しもない。