黄金頭の『ずったら ずったら』を読んだ。まず第一に言いたいのだが、文字が小さいのだ。そして、その文字がぎゅうぎゅう詰めになっている。11編の断片がそれぞれ勝手に主張していて、それがなにかひとつの「圧」になっている。
文章は悪くない。いろいろな作家などの影響を受けて、それらしく書かれている。それらしく書かれたものは、それらしければ、それらしく見えるものだ。だから、こと文章に関しては横浜市中区■■町界隈ではいちばんに上手といっていいだろう。そして、印刷された写真もなかなかのように見える。
おれはおれの失敗を立案を、実行を反芻しながら家路についた。べつの帰り道を選ぶことや、トイレに寄る寄らない、そんな選択で、おれがこれに関わらなかったという樹形図はいくらでも展開できるが、それは関係ない話だった。
―「小さな犬を救えなかった話」
ただ、「圧」の行き先が不明なのである。どこを向いて歩いているのか、どのくらい歩いてきたのか、どこまで歩くのか、皆目見当がつかない。それは読者を不安にさせもするだろうし、場合によっては可能性なのかもしれないが。もっとも、著者自身はそんな可能性など信じていないように思える。
書かれた時期についてもばらばらだが、比較的古い。まだ黄金頭が若かったといっていいころのものすらある。ともかく、なにかあれば書かなくてはいけない、というオブセッションがある。あるいは、なにがなくても、書かなくてはならない。ただそれだけ。その一貫性のなさが少しの面白さでもあるだろうし、逆に著者の圧倒的な顔のなさ、空白の履歴書を表すようでいてつらいところでもある。
そんな著者の膨大な日記のなかから、いくらか読めるものを見つけてきた編集者はなかなかのものだし、写真と合わせて「もの」にしてみせたのは大したことだろう。そして、それに出費し、宣伝をしている人間も、まあもの好きといっていい。
いずれにせよ、読者を選ぶものであるだろうし、おおよそだれかを振り返させることができるものではないかもしれない。ただ、わりと悪くはないぜ、と言っておきたい。おそらく、著者にこんな機会が訪れることは今後ないのだろうし、手に入る機会があるのであれば、入れておいていいだろう。コンビニ弁当一食分、と思って、それで、なにかの事情で消えてしまう可能性のあるデジタルなデータを、紙というわりと保つ媒体にして所有して、たまにちょっとめくってみてもいいだろう。
気配だけそこにあって、遠くから鈴の音が聞こえてくる。
ぼくは紙のようなものでできているのを感じる。
吹く風に舞い上げられて、どこかに飛んでいってしまう。
必要のないものはすべて捨てられてしまった。
必要のあるものはすべて集められてしまった。
ぼくは紙のようなものでできている。
残してきたものなどなにもない、自由になった。
―「ぼくは神のように無造作に作られていて、秋の道をとぼとぼと歩いて行く」部分
……お求めはAmazonで、というわけにはいかない。文学フリマ京都にお越しいただくしかない。
こちらにお越しいただいて、「か-03」で買い求められるのがとりあえずの手段だ。「ラーメンが獣臭い」付箋もついてくる。
ただ、著者本人は当日、関内で酒を飲みながら競馬をしているらしく、不在らしい。いずれにせよ、「せっかく文フリに来たのだから、お目当てのなにかほかにも買ってかえろうか」と考えたら、購入を検討してもいいだろう(してください)。
あとは、メールで通販ということもあるらしい。「文字が少し小さいので、100円ショップで買った老眼鏡と合わせて『ハズキノレーペセット』として高く売ったらどうか」という案もあったが、却下されたらしい。
以上。