いま話題の中国SFとは? 『折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー』を読む

 

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5036)

折りたたみ北京 現代中国SFアンソロジー (新☆ハヤカワ・SF・シリーズ 5036)

 

 

「いま話題の中国SFとは?」などと書いてしまったが、そもそも「中国SF」というくくりが正しいのかどうか。

編者であるケン・リュウが序文でこう書いている。

 中国SFの話題が持ち上がるといつも、英語圏の読者は、「中国SFは、英語で書かれたSFとどう違うの?」と訊ねます。

 たいていの場合、その質問は曖昧ですね……それに気の利いた回答はありません、と答えて、わたしは質問者を失望させてしまいます。

 ふむ。

 そもそも“英語で書かれたSF”というのが、比較対象に役立つカテゴリーだと、わたしは思っていません(シンガポールで書かれたフィクション、あるいは英国や米国のおのは、みなそれぞれとても異なっており、そのような地理上の境界の内部で、また、境界を越えて、さらなる区分けがあり)、そのため“中国SF”をどんな基準で区別しなければならないのかすらわたしにはわかりません。

 さらに言うなら、百人のさまざまなアメリカ人作家や批評家に“アメリカSF”の特徴を挙げるよう頼むところを想像してみてください――百の異なる回答を耳にすることでしょう。おなじことが中国人作家や批評家、そして中国SFについて当てはまります。

 ……なんというか、実に当たり前すぎる話である。これを「日本SF」に当てはめても同じことだろう。ハードなのもソフトなのもコミカルなのもシリアスなのも伝奇じゃねえのというのもある。それでもなお、なにか中国SFを語る言葉があるとすれば、うーん、やっぱりねえんじゃないの。

いや、中には現代中国の政治体制の風刺になっているような作品もあるだろう。だが、それにしたって、数ある作品のなかに、たまたまそれがあるだけだ。それだって、英語で書かれたSFや日本語で書かれたSFと異なっているわけでもない。

というわけで、このアンソロジーにはおおいに読者をうならせる(うならないかもしれないけれど)、いろいろのSFが詰まっている。全体的な感想からいうと、おれはなんというか、フレッシュさを感じた。若書き、というわけではない。いや、むしろ、フレッシュなのはおれのほうか。なにかこう、「久々にSF読んだな」と感じた。

アンソロジーのタイトルになっている「折りたたみ北京」は折りたたまれる北京の話である。市民が三階級に分かれており、お互いが接することなく、生活時間を別にして、そして都市が「交替」するのである。都市、経済、そして大胆な発想。そこに息づく人間、おもしろい。

同じ著者の「見えない惑星」イタロ・カルヴィーノの「見えない都市」の惑星版で、とくに目新しいものでもなかったが、いろんなの書けるぜ、という感じがした。その著者の郝景芳は清華大学で物理学を専攻したのち、天体物理学センターで院生までやったあと、さらに同大学で経済学と経営学の博士号を取得して、シンクタンクで働いているらしい。なんというか、べつに著者の学歴というか知力が作品の出来栄えと比例するわけでもねえだろうが、ここまでの人間が書くとなると、まあなんか隙がないだろうな、とは思ってしまうわな。

それでもって、注目の作品となると、やはり劉慈欣ということになるだろう。おれが「いま話題」などと書いてしまったのも、この著者による『三体』が話題になっていたからだ。そして、このアンソロジーには『三体』の一つの章を改作した「円」という短編が載っている。これがべらぼうにおもしろい。ときは紀元前227年、秦の始皇帝荊軻……暗殺話なんかじゃあない。なんという発想、スケール。この「円」一作読んで、『三体』は名作なのだろうと、ほとんど確信できた。そのくらいのものである。

そしておれはいま、編者であるリュウ・ケン、ちがった、ケン・リュウの作品を読んだりしている。夏はSF、いや、しらんけど。そしてもちろん、いつかは『三体」を読むだろう。

以上。

 

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三体

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