年末年始『三体』三昧

おれが劉慈欣の『三体』を読み始めたのは西暦2021年12月30日14時20分(JST)頃である。そのことは「サンマルクカフェ」のレシートから明らかだ。

さかのぼって数十分前、おれは伊勢佐木モールのブックオフにいた。恥を晒すが、ブックオフだ。そこでおれが見たのは『三体』のIIの上下巻、IIIの上下巻「だけ」であった。肝心のIがない。Iだけがない。

さかのぼって数ヶ月前。「話題の『三体』だけど、完結してから読むか。年末年始にでも一気読みにするか」。

そのときが来た、と思ったのに来なかった。いや、ならばIは有隣堂で買おう。そう思って、いったん一階まで引き返したブックオフの二階に再度引き返した。四冊買った。IIとIIIが上下巻ずつなんて、最近の村上春樹みてえだな、とか思った。そして果たして、有隣堂にはIがあった。おれはそれを買った。

そしておれは、それをサンマルクカフェで読み始めた。家に帰っても読んだ。ぶっ通しで読んだ。おれは精神病(双極性障害)の影響もあるのか、「寝食も忘れ」を文字通りやってしまうことがある。おれはそのように読んだ。

が、大晦日などはテレビも見なくてはならないし、1月2日には人と会い、3日には初詣に出かけた。「年末年始の休み」の猶予は少ない。

1月3日、江の島まで出かけた初詣からの帰宅後、おれはかまぼこと日本酒だけとって、ひたすら『三体』IIIを読みふけった。12時間近くぶっ通しで読んだ。なんどかお手洗いには行った。明け方のニュースで流星群の話を見て、少しだけ外に出て空を見上げた。横浜の空は明るく、ほとんど星は見えなかった。読み終えたときには、いつも出勤時間くらいだった。自分で自分の会社の自分が更新したサイトを見て、4日まで休みなのを確認した。そして寝た。おれが『三体』のどの部分をどういう速度で、どう読んでいたのかメモしておけばよかった。なんの役にも立たないが。ともかく、西暦2021年~2022年の年末年始は『三体』に明け暮れた。

 

 

 

 

 

さて、『三体』。近年まれに見るSFの売れ筋である。評判を見るたびに「これはおもしろいにちがいない」という確信を深めていった。ただ、完結を待つというのは嫌なので、一気読みしたいと思った。そして、おれはネタバレを嫌うので(SFなんて未知を楽しむものではとくに)、情報を遮断した。

なので、『三体』が「三体問題」の「三体」なのを知ったのも、読み始めてからだった。おれは『三体』以前に三体問題を知っていた。算数嫌いの文系なのに。その証拠は……。

生きてて辛いときの対処の仕方。

ピタゴラスの三体問題のシミュレーション動画を繰り返し見る。

2019/10/28 20:10

b.hatena.ne.jp

……2019年なので微妙か。まあいい。おれは三体問題のシミュレーション動画を何度も見ていたので、容易にそれをイメージできた。悪くない。

とはいえ、『三体』はピタゴラスの三体問題に収まるようなものじゃない。想像を超えていた。文化大革命から話はスタートし……(※以下、ネタバレ含まれるかもしれません)、とんでもないところで終える。それだけの距離感を持ったSFというものはあるが、これだけ骨太で、でかい棍棒をぶん回してきたようなところもあって、なおかつ詳細において緻密な描写(部分部分、物理、科学的なところでは大雑把らしいが)をも含んでいてるものは、そうないんじゃないのか。

たとえば、傑作である『天冥の標』なんかも、いろいろな要素をぶちこんできて、すごく長い遠くまで行く話ではあるが、その暴力性というか、迫力においては『三体』が強い。翻訳者が書くように、「大時代的な」、「野蛮な」SFであって、今どき珍しいかもしれない。しかし、その恐竜はきっとSF好き以外も食い尽くす威力がある。そうだ、SF好きでない人が、最初に出会う物語としても最良の作品といえる。もちろん、初心者向きの入門書なんかじゃない。とくに作者が自身のSF趣味に振り切ったIIIなどは強烈だ。まさに圧巻のスケールだ。

そこに至るIとII、とくにIIの暗森森林理論と、それをめぐる人類の知的闘争はすさまじいい。「これはすごいな」と思う。が、もうそれをIIIでさらにふっとばす。やばい、言葉にらならない。

もちろん、これだけの長編(作品内時間経過も含めて)であるがゆえに、「あのキャラどうなったの?」とか、「ちょっと女性についての描かれ方が」とか、「日本人として『智子』はどうなの」とか、「オーストラリアひどすぎね」とかあるが、まあそんなんどうでもいいんだ。ぜんぶ飲み込まれてしまうんだ。

ああ、すごかったな。しかし、ケン・リュウ作品やアンソロジーなどでいくらか読んでいたが、中国SFすげえな。いや、中国SFというより、まずはともかく劉慈欣がすごいのか。とはいえ、その下敷きにはかつての大時代的な大きなSFがあって(そのなかには『銀河英雄伝説』があったりする。作品中にもヤン・ウェンリーの言葉が引用されていたりする)、そこんところの作者の憧れというか、思いというか、情熱がドバーッと出てきていて、まあ圧倒されるのだ。

けど、再度言うけれど、面壁社計画、暗森理論など、その駆け引きの緻密さには舌を巻くし、登場人物もそれぞれ深みがあって、作中人物も体感した、キャラが勝手に動き出すというところもあったのかもしれない。

いずれにせよ、その行き着くところはすさまじく、いや、これは、いまさら読んだおれが言うけれど、未読のあんた、読むべきだよ。細々としたことは、読んだあとに言ってくれ。それだけのスケールとパワーがある。かといって、緻密さもある。ものすごく細かい文様が刻まれたでかい棍棒、そんなイメージ。もう、言うべきことはない。読んでくれ、頼むから。なんというか、おれは、ひさびさに、SFのでかいパワーにやられてしまった。ちょっと立ち上がれないかもしれない。そういうレベルだ。

しかしなんだ、中国よ、中国語よ。日本語とは漢字をある程度共有している。それゆえに、ひょっとしたら英語作品より通じるところがあるかもしれない。「球」の右上の点、などというのは、英語版ではどう訳されているのだろう?

ああ、それにしても中国よ、中国共産党よ、これだけの想像力を、創造力を、どうか潰さないように、それを願う。劉慈欣が、おとぎ話のような形で当局の目を避け、なんとか世界に物語を発信しなきゃならないようなことは、絶対に想像したくないじゃないか。

以上。

 

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

<°)))彡<°)))彡<°)))彡<°)))彡

goldhead.hatenablog.com

なんという発想、スケール。この「円」一作読んで、『三体』は名作なのだろうと、ほとんど確信できた。そのくらいのものである

……というわけで、とりあえず「円」を読んでもいいかもしれない。

 

goldhead.hatenablog.com