ジャン・グルニエ『孤島』を読む

 

孤島 (ちくま学芸文庫)

孤島 (ちくま学芸文庫)

 

 ジャン・グルニエの『孤島』を読んだ。おれはアルベール・カミュではないので、この本を啓示のように受け取るようなことはなかった。むしろ、どう受け取っていいのか困惑した。困惑して、二回読んだ。二回読んでもやはりわからぬ、というところであった。三回読めば変わるのかもしれないが、とりあえず、おれは、二回、読んだ。ところでおれは、カミュを読んだ覚えはあるが、何を読んだかすら覚えていない。

 われわれは、自分が生まれたと思った国に、かならずしも生まれていたのではないのかもしれない。

「日本語訳『孤島』のための跋」

なのだけれども。

 西欧人は(西欧人というとき、私は一種の精神の人を意味し、その人が住んでいる土地によってではなく、その人が考えるという点でそう定義づけるのである)、ますます彼の耳、彼の目、彼の手にしか、そしてそれらの行動範囲とそれらの能力とを倍加するようなあらゆる方法にしか、信頼を置かなくなっている。つまり道具と推論にしかたよらないのである。

「想像のインド」

つまりは、おれは、精神の人として、西欧人ではないのだな、と思う。かといって、「想像のインド」にも、あるいはインドにも生まれていないような気がして、つまるところ、おれはこの日本という島国に生まれたと思っており、生まれたのだ、ということだ。

そして、おれはこの日本から一歩も外に出たことがない。これからも出る機会はないだろう。外はおそろしい。それよりも、そもそも行く金と知識と能力がない。

ゆえに、ゆえにだ。『孤島』に描写されている風景というものが入ってこない。と、そこで、「いやいや、そうじゃないでしょう、『孤島』に描かれている島々というものは」というツッコミが入るかもしれない。そうだ、なにせ「ケルゲレン諸島」や「イースター島」、そのうえ「想像のインド」だ。イタロ・カルヴィーノマルコ・ポーロの口を借りて語った、想像の国々のようではないか。……なのだけれど。

なのだけれども、どうもやはり西欧人があらかじめ持っているような風景を、おれは持っていない。どうにもそこでふるい落とされる気がしてしまう。風景といっても、土地の風土やらお決まりのイメージやらそんなのもあるだろうが、そこの根っこの違い、考え方、感じ方の違い、それがある。そんなのはおれの劣等感かなにかかもしれないが、まあ少なくともそうなのである。

しかし、カミュはこんなことを序文で書いている。

この本は、そういえば、私たちの王国であった感性的な現実を否定することなく、そうした現実に、私たちの青春の不安を解きあかすもう一つの現実をかさねあわせていた。それまでに私たちがおぼろげに生きてきた陶酔とか、肯定の瞬間といったもの、『孤島』のもっとも美しいページのいくつかを生みだす霊感の源となったそれらのものの、消えやすさと、消え去ることのない味わいとを、グルニエは私たちに思い出させてくれた。

うーん、「孤島」といっても島の話じゃあない。島の話だけれど、それは比喩的なものだ。そういうところで、おぼろげな「王国」が描かれているのかもしれない。

どんな人生にも、とりわけ人生のあけぼのには、のちのすべてを決定するような、ある瞬間が存在する。そんな瞬間は、あとで見出すことが困難だ。それは、時間の堆積の下にうずもれている。

「空白の魔力」

これに続く、幼少期の描写などが感性の王国なのかもしれない。

 私は、しきりに夢想した、一人で、異邦の地に私がやってくることを、一人で、まったくの無一物で。私は、みすぼらしく、むしろみじめにさえ暮らしたことだろう。なによりもまず私は秘密を守っただろう。私自身を語る、人の前で自分を明かす、私の名を出して行動する、そういうことはあきらかに私のもっている、しかもいちばん大切な何かをそとにもらしてしまうことであったようにいつも私には思われた。

ケルゲレン諸島

あるいは、こんな書き出しから? この最初の「私」には注釈がついている。

*私はやむなく「私」という人称にする。私は元来、小説家が使う「彼」のよそよそしさも、「私」の正直さも、それほど信用しないのだ。

こんな「ケルゲレン諸島」は、なにやらフェルナンド・ペソアの世界のようでもあり、隠れた生活というものへのあこがれといったものが色濃く現れている。

孤島としての人間、というものなのかな。おれにはよくわからない。やはり。

そしてなにより、なんだろうか一番おれの琴線に触れたのは「猫のムールー」という一編なのであるが、おれはこれについてあまり語りたくない。それは時代や社会による価値観の違いだよ、というところもあるだろうが、どうもおれには「猫のムールー」によって気分を害したところがある。おれの「お気持ち」というやつである。これだけ猫を描写し、猫好きの人間というものを解し、それでそうするのか、という、とくに高尚でもない、深みのない「お気持ち」を抱いてしまった。それでこの本に対してなんらかの距離感を抱いてしまったといったら言いすぎかもしれないが(だって、「私」の正直さも信用していない人間の書くものだ)、まあそういうところがあった。これも感性の王国にいるつもりの人間の言うことだ、ご海容ねがいたい。

まあ、そんなところです。あまりたいしたことのない人間に、なにかたいしたことのあるものを与えてみても、猫一匹で台無しになってしまう、そんな話。以上。