これぞ絶対的強者! 木村政彦『わが柔道』を読む

 

わが柔道―グレイシー柔術を倒した男 (学研M文庫)

わが柔道―グレイシー柔術を倒した男 (学研M文庫)

 

 おれが木村政彦について書かれた本にとても惹かれていることは今まで書いたとおりだ。

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が、しかし、「木村政彦の本」というものを読んでないことに気づいた。そこで手にとっったのが『わが柔道』だ。

最初に言っておく。掛け値なしにおもしろい。

「ここはいいな!」と思ったところに付箋を貼っていったら、文庫本が付箋だらけになってしまった。それだけいい本である。本人が筆をとったのか、だれかが聞き書きしたのか、そんなことはわからないが、ともかく「いいな!」という本なのである。

そして、思ったのである。木村政彦は絶対的強者である、と。

人間をはかろうとすると、いろいろな尺度があるだろう。ある面では強いが、弱いところもあった。あるいは、敗者ではあるが、ある面では勝者であったかもしれない……など。しかし、おれがこの本から感じたのは、木村政彦が絶対的な強者である、という印象、そればかりなのである。

戦後、苦しい時代とはいえヤクザとつるんで闇屋をやったのは弱い心情ではないのか? しょっちゅう酒を飲んで、軍隊生活を抜け出しての学生への稽古で酔いつぶれて絞め落とされるような人間は弱いのではないか? 妻がありながらしょっちゅう浮気をしているのは色気に弱いのではないか? いろいろあるが、今日的道徳では弱いのではないか?(道徳は強弱だろうか?) 結局、力道山戦では油断して弱かったのではないか?

……いいや、うるさい、そんなのはどうでもいい、そんなものを吹き飛ばすくらいに強いのだ。これは説明しにくいのだが、そんなのどこ吹く風といったところでに木村政彦はいるのである。付き合いのあったヤクザの名前を出して「まったくダニのようなヤクザだったが」とか書いて平気なのである。なんだろうか、なんというか、人間として、生物として、あらゆる定規をへし折るくらい強い人間というのは、いるのだ。そして、まさに木村政彦は、そういう人間なのである。相対的に強い、というのではなく、絶対的に強いのだ。いや、強いんだよ。

 人間、心に残るものがない毎日を送るほどつまらぬものはない。心に残るものがないから反省がない。反省がないから進歩がない。進歩のない人生などというものは、まったく無意味ではないか。

「心に残ることを」

こんな冒頭のお説教も、木村政彦が言うとなると「そうかもしれない」などと、怠惰をモットーとするおれが思ってしまうくらいなのである。

とはいえ、「えー、そんな立派なこと言ってたのにー」というエピソードが満載なのが、この本なのである。

 三段になるには、京都武徳会本部で実技と筆記の試験を受けなければならない。……(中略)……実技は苦もないことだったのだが、筆記試験では参ってしまった。柔道の本来の目的だとか、連絡技だとかいう問題なのだが、ひょいと後ろをみると、大人の受験者がほとんど全部書き終えている。私はそれをひったくると、自分の名前を書き込んで、さっさと出してしまった。あの人には、今でも悪いことをしたと思っている。

「鎮西中学時代―弱虫が大将に」

無茶苦茶じゃないか。カンニングどころではない。テスト泥棒である。だが、これが木村政彦の強いところだ。なぜ「ひょいと後ろをみる」のか、そこからわからん。そして、「今でも悪いことをしたと思っている」で済ます。強い。

その強い人間を指導した人間も強いに決まっている。牛島辰熊である。拓大予科一年時に講道館の紅白試合で八人抜きして意気揚々と報告すると、いきなりこっぴどく木村を殴るのである。

 牛島先生曰く、「八人投げて九人目に投げられるとは何事か。試合では、武士が互いに白刃の刃を抜き放って殺すか殺されるかの真剣勝負をするのと同じだ。相手を投げるということはすなわち殺すことであり、投げられて負けるということは、殺されるということだ。お前は八人殺して、九人目に殺された。木村という人間は、今ごろ地獄の三丁目あたりをうろついているんだぞ。いいか、お前が柔道を志す人間なら、試合ではどんな強敵が何十人いようと、投げ倒してしまうか、それとも中途で引き分けをするかによってのみ、命をながらえることができると思え。わかったか」

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まあ、この顔を見ただけでもわかるでしょう。

で、木村政彦は全日本選士権大会を優勝する。

 夕食の膳には、イワシと小鯛が並んでいた。私は空腹と嬉しさで、茶碗大盛り十三杯をたいらげた。しかし、その夜も、腕立て伏せ五百回、ウサギ跳び一キロ、空手の巻藁突きを五百回やった。

「全日本三連覇」

こういう木村が考え抜いて至ったのが「三倍の努力」である。「三倍の努力」とはなにか。三倍努力するのである。すげえシンプル。だが、できる実際にできる人間はほとんどいねえ。そこが圧倒的に強い。

そして、試合前夜には座して精神統一をはかる。邪念も出てくるが、やがて、無我の境地にいたり……。

 無我の境地(との意識は自分にはないが)に入ることしばし、私の念頭に「勝」の一字が影薄くはりついた。かと思えばそれはすぐさま「負」の文字と重なってみえなくなった。しかし頭の中はもう空虚である。努めて「勝」の一字は求めない。

 座り始めてどのくらいの時間が経っただろうか。急に、頭のてっぺんから熱湯をかけらたように全身がカッと熱くなり、ワナワナと震え始めた。

 ハッと気がつくと、額の中央に「勝」の一文字が燦然と輝きながら浮き出ている。まるで私が気づくのを待っていたかのようだ。

 「明日の試合には、勝った」

 心の中で、私は狂喜せんばかり喜びをかみしめた。

もう、これである。前夜に勝っているのだ。負けるはずがあろうか。そしてまた、力道山に「殺」の一文字というのも、あの試合で不覚を取ったからそんなふうになったのではなく、もとからこうだったのだという話である。稽古で膝をつかされただけの相手を殺そうと、包丁を持って家の前まで行く人間のすることである。

 私に言わせれば、孤独こそ自分を最大の成功に結びつけてくれるものだ。依頼心は道をきわめる妨げになるだけである。人間、生まれるときも一人なら、死ぬときも一人だ。死ぬ間際になって助けてくれと叫んでも、誰も助けることはできない。仕事も、柔道も、同じだ。我が道を行く。ゴーイングマイ・ウェイ。この精神しかないのだ。

これを言い切るところもすごい。急に「ゴーイングマイ・ウェイ」言うところもすごい。このあたりに、絶対的強者という感じがするのだが、どうだろうか。

でもって、木村政彦は天覧試合に望み、天覧試合で優勝する。時代が時代である、天覧試合の価値というものは非常に大きなものだろう。……が、木村政彦は兵隊にとられるのである。

正直、今までの本を読んでいてもよくわからなかったのはここである。日本武道の一つとして、おそらくは今以上の比率で柔道人口もいたであろう時代の、全日本選士権三連覇、そして、今よりもその意味が大きかったであろう天覧試合、紀元二千六百年奉祝天覧武道大会で全五試合一本勝ちした日本最強の柔道家が、単なる一兵卒として徴兵されてしまうのか、ということだ。

本書を読んだところ……、やはりそうなのである。それどころか、体格に見合う軍服がなく、用意されたのがツギハギだらけのそれで、「ツギハギ」と呼びつけられる二等兵となるのである。なんというか、なんなのであろうか。徴兵というものがあって、それが公平、平等なものであるということなのか、それとも日本的な妙な平等主義なのか、そんなことにかまってられなかったのか、なんとも不思議な感じがする。無論、「柔道が強いといっても鉄砲の前には役に立たない」とか、「そこで優遇されるのはおかしい」という話もあるのだろうが、どうなのか。むろん、沢村栄治バロン西の例もあるが……。

とはいえ、将校はやはり木村の名前と実績を知っていた。ある日、銃剣道八段の名人が部隊を訪れた。実地指導となり、だれも手を挙げない。そこで隊長が「木村二等兵、前へ!」と言う。組手のために空手をやった木村といえど、銃剣道はまったくの素人である。そこで、どうしたか。

 互いに礼をかわし、木銃をかまえる。さすがに私は緊張した。先生から見れば、私のかまえや木銃の握り方が何とも不細工に映ったのだろう。さかんに「突いて突いて、さあ元気を出して、早く早く」と声をかける。が、突いたら負けと覚悟している私はじっと耐えて時機を待った。こうなれば「窮鼠猫を噛む」のたとえどおりである。突くと見せて、私はY先生の顔面めがけて思い切り木銃を投げつけた。ガチンと払いのける一瞬、私は先生の膝をめがけてタックルしていた。ひっくり返る先生、私は先生に馬乗りになり、「待て待て」と叫ぶのもかまわず、その面を両手をはずし、エイッとばかりに顔面に駄目押しの一撃を加えようとした。

 「止め! 止め! それまで!」

 中隊長が飛び出してきて引き分けたが、勝負は完全に私の勝ちだった。名人といえば、何が何だかわからないというふうで、頭をうなだれたまま引っ込んでしまった。

 そうまでして勝たなくても、と言われるかもしれないが、私としてはどんな格闘技であれ、勝負を挑まれて全力を尽くさずに負けるわけにはいかなかった。そんなことをすれば、生涯しこりとなって胸に残るものだ。

痛快な話と言える。しかし、一方で、後の木村政彦、というか、力道山戦の話を知る人間から見ると、なんとも言えない気持ちにもなる。木村はプロレスを完全なる八百長、格闘技ではないと考えていたのかもしれないし、そのようにプロレスをやっていたのだが、スイッチの入った力道山に対して……とかなんとか。やはりそこんところ、「生涯しこりとなって胸に」残ってしまったのではないか。そんなふうに思えてならない。

とはいえなんだ、ここで木村が選んだ技はタックル、双手刈りである。最近の一時期、国際試合でタックル柔道というものが流行し、やがて制限されることになったのだけれども、「日本の古流武術にも、もともとあったものじゃないか」という指摘も正しいように思える。

と、まあ、質の悪い上官に睨まれたり、睨み返したら立場が逆転したりと、そんな兵隊生活。いよいよ前線志願へ、となって、ここでようやく「柔道の木村」の名前が意味を持つ。志願届を出したあと、隊長から呼び出される。

「……現今の状況では、我々の作戦はまったく無謀なものだ。まず全員が海の藻くずと消えることになるだろう。どうだ、同じ日本のために尽くすつもりなら、戦場で無駄に散るより、柔道の才能をいかして国のために働くのが本当だとは思わんかね。少なくとも僕はそう思う。さあ、それでも行きたいと言い張るのかね?」

「はい、行きたいであります」と答えると、急に隊長の口調が変わった。

「上官の命令は、これ天皇陛下の命令だぞ。行くことはならん!」

して、木村二等兵が乗り込むはずだった輸送船団は、航行中に襲撃に遭い、隊員五百十数名が戦死、わずか一名が全身やけどで島に泳ぎ着いただけだったという。結局のところ、柔道での実績が木村政彦を生かしたのである。「柔道が強いということが他人より生きる価値が高いということになるのか」という話になるのだろうが、ともかく、そうなったのだ。

とはいえ、終戦後、木村を待っていたのは苦難の道であった。MPを投げ飛ばしたり、それで柔道を教えたりとかあっても(ついでにボクシングを習ったりする)、生活は苦しい。ヤクザと付き合い、闇屋をやる、用心棒をやる。このあたり、なにやら悲愴な話になるのだが、それでもなにかしら強いのが木村である。このあたりは本書をあたられたい。

でもって、木村はプロ柔道を経て、プロレスに行く。木村はこう記す。

 柔道からプロレスへ。真剣勝負の世界から百パーセント八百長の世界へ。私がこうして百八十度進路を変えることになったのは、ひとえにカラシックという男との出会いがあったからだ。人との出会いというのは、実に面白い。人生を狂わせてもしまうし、未知の世界へと導くこともある。

 プロレスの世界は私の肌に馴染みはしなかったが、とにかくこの仕事で得た金で、私は日本では買えない肺病の特効薬ストレプトマイシンやパスを買い求め、日本へ送り届けることができた。ギャラはよかったから、いくら高い薬でも十二分に買えた。この薬効があって、妻は命をとりとめたのである。

ミスター高橋本よりさらに昔に、「百パーセント八百長の世界」と言い切っている。これは、当時のプロレスファンにはどう受け止められたのであろうか。「力道山に負けたからだろう」と思われたのか。それとも、この本自体が話題にもならなかったのか。

要は、いかにしてお客さんを怒らせ、喜ばせ、興奮させるかがプロレスラーの生命である。勝ち、負け、というのは、第三、第四の問題であり、最も大切なことは「芸」である。つまり、芸の上手か下手かによって収入が多くなりもすれば、少なくもなる。芝居の役者同様である。そのために、毎日鏡を見て嬉しい顔、悲しい顔、怒った顔、なぐれたときの痛い顔などを写して見たのだが、喜んだ顔と痛い表情が似ているのには、我ながらがっくりさせられた。

 しかしまあ、こんな具合である。そして、運命の力道山との試合。アメリカ遠征で成功し、さらに日本でも巡業をしていた木村。マスコミが木村対力道山をあおりはじめる。

 ……私は力道山と会って、試合に対する考えもただしてみた。力道山は、「それは良い方法です。お互いにプロレス精神にのっとってやれば、数ヵ月で巨万の富を得ることは間違いありません。是非決行しましょう」と言う。

 話は決まった。勝ち負けは、一回目は引き分け、二回目はジャンケンで勝った方が勝ち、それ以後はこれを繰り返して興行する。互いにこの条件で納得したのだ。

って、そんな裏話までどうどうと。ジャンケン、ジャンケンで決めるの? 今はどうだかしらないが、そういうものであったか。

と、なにやら、長くなってしまった。おれがメモしたのは、本書の魅力の一部でしかない(一部でも伝わっていればいいのだが)。

若き日の柔道の真剣勝負と、その詳細を記憶している木村、糞味噌汁を作る木村、エリオ・グレイシーと決闘する木村、再度の遠征でボクシング、カポエラのチャンピオンで柔道四段の黒人格闘家と鮮血の「バーリテュード」をする木村(本当に総合格闘技、それも今より過激なルールなんだよ)、そのあたりの激闘その他、ともかく読んで興味は尽きない。これは、ともかく、必読だ。とくに、試合の詳細というものは経験者ならばなにか感じ入るところがあるかもしれない。巻末の、山下泰裕との対談も読め。ともかく読め。なんだかわからないが、おれはいま、木村政彦ブームのなかにある。

 

以上。