『こち亀』愛憎 「『こち亀』社会論」(稲田豊史)を読む

 

『こち亀』社会論 超一級の文化史料を読み解く

『こち亀』社会論 超一級の文化史料を読み解く

  • 作者:稲田 豊史
  • 発売日: 2020/09/12
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

こち亀』とおれ、おれと『こち亀』。それについては日記に書いてきたので、気になるなら読まれたい。

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最初に単行本を買ったのは何巻だったか。買ってもらった場所は覚えている。ファミレス帰りに寄った手広の交差点近くのコンビニ。今あるのかどうかはしらない。内容は、いきなり『こち亀』の面々がSWATになっているというものだった。たしかか、55か56巻。当時は、そんなに巻数を重ねている漫画はほかになかった。おれは『こち亀』に夢中になった。そして、60巻を数えるころには、全巻そろっていた。それはおれが中学に入ったときのころだったろうか。おれが「こち亀全巻持っている」というと「オタク」呼ばわりされた。宮崎勤の事件の余韻冷めやらぬころだった。そんな時代だった。

おれをオタク呼ばわりした二人の友人とは絶交した。私立中学でほかにだれも話せる相手もいなかったのに。

 

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こち亀』に転換期はあったのか。もうそれは半分以上知らないおれにはよくわからない。わからないが、「両さんがパソコンを理解する」ところは、ひとつの節目だったように思う。最初は野球のルールすら知らなかったんだぜ(まあそれはそれで不自然ではあるが)。でも、そこについて行ったところに、長寿の秘訣があったのかもしれないが。そしてまた、長寿のための長寿ではなかったんだぜ、と思いたいのは、やはり『こち亀』を全巻持っていることで「オタク」呼ばわりされたおれの贔屓目だろうか。

 

……というわけで、おれはこち亀の愛読者だった。一方で、途中離脱した人間でもある。だいたい、60巻くらいまでがピークだったと思う。ちなみに、第一話の「差別的表現」も、禁煙宣言も、コミックスで読んでいる世代だ。

で、「『こち亀』社会論」ということになる。どこかネットで見かけて、「なるほど、たしかに『こちら葛飾区亀有公園前派出所』は超一級の文化史料には違いあるまい」と思った。

まずは、ともかく連載期間が長い。40年。そして、「週刊少年ジャンプ」の週刊連載という定位置にいた。毎週新作が出てくる。基本的に一話読み切りで、世の流行りを敏感に取り入れている。そんなものが、ほかに存在するだろうか。

さらに言えば、「週刊少年ジャンプ」に連載され続けたということの凄みだ。「漫画雑誌に上下などない」という意見もあるだろうが、やはり「週刊少年ジャンプ」に連載されるというのは、将棋でいえばA級に在籍することであって、プロ野球でいえば一軍のスタメンに名を連ねるということであって、競馬いえばオープンクラスにいて高いレベルの重賞、そしてG1の常連であり続けるということだろう。生半可なことではない。飽きられてはならない。それだけ、『こち亀』は時代に寄り添ってきたともいえる。

そのような『こち亀』を本書の著者は「無反省」と「無節操」の美学、という。「時代と寝た」とすら言う。世間を「2・6・2」に分けたら、常に「6」の立場でいたという。両津勘吉は飛び抜けたキャラではあるが、なるほど、世の多数派の「本音」を代弁しつづけてきた。

というわけで、そのような「定点観測」から『こち亀』を読み解いてみたのがこの本だ。日本の経済、住宅事情、技術の進歩、暴走族やヤクザの存在、マニアとオタク、ビジネス、そして時代時代のポリティカル・コレクトネスとの関係……。まあそれにしたって、著者の秋本治の個性というか、趣味、好み、そして世代というものもあるとは思うのだが。

ま、そこらについては、本書を読んでくれ。それらが日本においてどう変化してきたか、そして、『こち亀』がどんなスタンスでそれらを描いたかについて、網羅とまではいかないかもしれないが、きちんと羅列している。

もちろん、そこで紹介されているエピソードのタイトルを見て、「ああ、こんな話あったな!」と思うこともあるだろう。それは本書の本当の目的でないにせよ、かつての『こち亀』愛読者はそう思うわけだ。ああ、蕎麦屋をわざとボロくして「こだわりの店」にしてみせた「両さんの繁盛記!の巻」は面白かったな、など。

で、読んでいて思うのは、社会論だか社会学的な時代の移り変わりよりも、著者(どんな人かは全くしらないが、同じ時期に小学生であった世代)の『こち亀』に対する思いがところどころ見受けられるのが面白い。「社会論」に徹しきれていなところがある。本書の本題とは逸れたところだ。「なんかこの人にとってはこのあたりの『こち亀』が好きで、このあたりになるともうあまり好きではないのかもしれない」というのが漏れ出してきている。いや、あえて出してきている。あとがきに著者と『こち亀』のなれそめについて書かれている。おれにも『こち亀』について、その移り変わりの中で「なんか面白くなくなったな」と思った時期があったので、それがよくわかるのだ。あとがきにこうあった。

 しかし社会人になって(97年4月)以降、『こち亀』への興味は急速に薄れていく。98巻以降のパソコンネタに辟易したのかもしれない。p.352

これ、おれと同じじゃないか。両さんがパソコンに対応してしまったことに、おれは「なんか違うな」と思った。パソコンにしろ、スマホにしろ、「こんなもんわかるか!」とぶん投げてしまうのが両津ではないのか。……が、なるほど、パソコンもスマホももはや基本的な家電のように普及した今となっては、それは不自然すぎる。本書でも秋本治の本から引いているが、秋本治はあえてパソコンについて、「あえて」描いたという。もし、両さんがパソコンに対応していなければ、世の中の流れ、大衆の流れから乖離しすぎてしまい、ひょっとしたら『こち亀』はもうちょっと早く終わっていたのかもしれない、などと思うのだ。いやはや、秋本治の炯眼。

とはいえ、ほかにも『こち亀』から読者が離脱していったきっかけもある。本書にはこうある。

 麻里愛の登場によって『こち亀』の空気や世界観は大きく変わった。80~90年代に『こち亀』を愛読していた読者に「『こち亀』をいつから読まなくなったか」と聞くと、よく返ってくる二大回答が「麻里愛が登場してから」と「擬宝珠纏が登場してから」である。なお麻里愛の初登場は1989年、纏の初登場は1999年だ。p.312

これもよくわかる話だ。おれは麻里愛の登場についてはあまり気にしなかった(けど、なんかの奇跡がおこって本当の女性体を得たことについては「なんだそれ」と思った)。しかし、擬宝珠纏といういうか、寿司屋編みたいなのは、ほんとうになんか、「これ、違うよな」という気になった。上でパソコンと書いたが、決定打は超神田寿司だったかもしれない。というか、擬宝珠纏が登場するくらいまではジャンプを読んでいたのかな、おれ。

あと、思い出すのは、2chこち亀のスレで、毎号毎号、「モブの顔がアニメ絵すぎる」というような批判が連呼されていたことである。アシスタントの絵柄批判だろう。これについて本書でも取り上げられていて、萌え文化への許容といった表現をされているが、おれもなにかあの不自然さにはなんか違うな、と思っていたものだ。もっとも、そういった文化を取り入れなければ、また『こち亀』は続かなかったのかもしれない。

そんなこんなで、著者はあとがきの最後の最後に構想段階のメモに記されていたことをあげている。

こち亀』のノスタルジー賛美漫画としてのイメージを払拭したい。

こち亀』のを連載途中から読まなくなった大人にこそ、本書を読んでもらいたい。

こち亀』には皆が思っている以上の価値がある。

そして、未読分の『こち亀』を読んでもらいたいと書いている。ずばり、おれは著者の意図にはまったといってもいいだろう。もとより、おれのこち亀好きは下町ノスタルジーものではないし、価値はあると思っていた。が、おれが読まなくなってからの『こち亀』、これが気になったのは確かである。

あなたは『こち亀』を読んでいましたか?

読んでいて、途中までで読まなくなったのはいつですか?

それは、なぜですか?

本書を読めば、そんなことを問いかけたくなることうけあいである。 

こちら葛飾区亀有公園前派出所 1 (ジャンプコミックスDIGITAL)