『論語』って一億三千万人のためにあるのかなあ?

このごろ孟子が気になっている。気になっているので本を借りたりした。同じ棚に、こんな本を見つけたので、とりあえず手にとってみた。

 

高橋源一郎の『一億三千万人のための『論語』教室』、これである。

高橋源一郎はおれがもっとも好きな小説家である。とはいえ、著書のすべてを追っかけているわけではない。『さようなら、ギャングたち』や『ジョン・レノン対火星人』といった超絶な名作で止まっているわけではないが、評論の本などはあまり追っていないところがある。

して、本作はなにか。これは『ブライト・ライツ、ビッグ・シティ』のような翻訳本であるといっていいかもしれない。いや、単なる翻訳だろうか。それ以外の、それ以上のものかもしれない。

 

 正直にいいます。『論語』の翻訳を、細々と初めた頃、孔子先生がほんとうはなにをいいたいのか、まったくわかりませんでした。意味はわかりました。現代の日本語に翻訳することもできました。でも、自分で訳した文章を見て、「なに、これ?」と思ったのです。そして、決めたのです。孔子先生がいうことがわかるまで決してこの人のもとを離れまいと。

 

 

そうして出来上がったのが、現代日本のわれわれに語りかける「センセイ」の言葉だ。

 

 だから、これは、孔子先生の教室に二十年通っている間に、ぼくがとったノートです。その間に、すっかり孔子先生と仲良くなってしまったので、ぼくは、孔子先生のことを、親しみをこめて「センセイ」と呼ぶようになりました。

 

 

で、高橋源一郎が、生きている間に完成させることができてよかった、という大作を、おれは一晩で読んでしまった。だって、読みやすいのだもの。

こんな具合に。

193 子曰く、民は之に由らしむべく、之を知らしむべからず。

 

「いいですか、よく覚えておいてください。政治は、民衆を熱狂させ、支持させることはできます。だが、できるのは、ただそれだけです。決して、民衆に、それがほんとうはどのようなものなのか、なにが起こっているのか、その本質はなんなのかを理解させることだけはできないのです。ほんとうは、そのすべては民衆のためのものであるはずなのに。悲しいことですが」

(これはよく知られた名言。その通り、というしかないですね)

……てな、具合だ。この調子で全訳している(ニ、三、内容がまったく重複しているのは校正ミスだといって省略しているが)。

 

でもって、おれはどう思ったか簡単に書くと、「普通のこと言ってるな」ということと(書かれた時代と現代との差を考えると、それはとてつもなくすごいことなのだが)、「民であるおれには関係ないんじゃねえかな」ということだ。

この、後者の印象がどうもぬぐいきれなかった。そりゃあ、孔子が生きた時代、世の中の仕組み、自らの身分、その他いろいろの条件というものがある。あるにしても、どうもこれは君主や官僚のために書かれた部分が大きいよな、というところ。まさに上に引用した「民」は別物、という感じがする。上の部分でも、高橋源一郎は必死にそこをかばっているように見えるが、どうにもそのあたりが、どうにも。

もちろん、政治について述べている部分も多く、高橋源一郎はついついモリカケ問題などについて述べてしまうわけだが、「現代の政治家に聞かせたいですね」と何度も出てくるが、民草に聞かせたいですね、というのは少ない。身につまされます、ということもあるにはあるが、圧倒的に政治家に語りかけている。

むろん、現代日本の民主主義では、その政治家を選ぶのはわれわれであって、われわれの仁が試されている、われわれが主体だと言うこともできるだろう。でもよー、なんかそんなん面倒というか、日々の餌を漁るのが大変で、そんな余裕ねえんだよな。少なくともおれにはねえな。顔回のようには生きられない。小人というやつだ。

むろん、いいこと言ってるんだけど、いや、できる人はがんばってください、ということになる。非常によくない態度ですね、と言われそうだが、民には民の生活というものがあるんだよ、とも言いたくなる。

 

285 子貢、政を問う。子曰く、食を足らわし、兵を足らわし、民にこれを信ぜしむ。(略)

 

子貢が、「政治」とはなにかと質問した。

「『政治』ですか。それはとても大切な質問ですね。よく聞いてください。『政治』とは、国民を飢えさせないこと、国民を守るための軍備をきちんと整えること、そして、国民に信用してもらうこと、この三つをきちんとやることです」

「では、センセイ。お訊きしますが、この三つを同時に行うことが不可能だとしたら、後回しにするのはどの項目ですか」

「いちばんいらないのは軍備ですね」

「では、残りの二つも同時に行うのは無理となったら、切り捨てていいのはどっちですか?」

「意外かもしれませんが、食料です。そりゃあ、食糧がなかったら、餓死する人も出てくるでしょう。けれども、どっちみち、人はみんな死んでしまうじゃありませんか。それよりも『民衆の信頼』が大切です。それがなくなったら、そんなもの、もう『政治』じゃありませんよ」

(おお、なるほど。軍備より食糧より「民衆の信頼」ですか! 現在の政治家のみなさんにも、このセンセイの名言をぜひ聞いてもらいたいものですね)

このあたりで、おれは「いや、食わせろよー」ってなってしまうのだ。うーん、なんだろうね、いいなってのもあるんだけどさ。

 

162 子曰く、疏食を飯い水を飲み、肱を曲げてこれを枕とす。 楽しみ亦た其の中にあり。不義にして富み且つ貴きは、我に於て浮雲の如し。

こんなんとかな。まあ、なんかセンセイは音楽にノリノリだったりするし、幼なじみの脛を棒で叩いたり、わりと親しみやすいところもあるんだよ。

でも、なんかな、なんかが違う。うーん、やっぱりあれかな、全体的にあれだな、あれもある。上に歯向かうところがない。孔子に向かって言うのは当たり前すぎるが、アナーキーじゃないんだ。レボリューションがない。反逆の思想がない。いや、孔子に向かってなにいってんのと言われたら返す言葉もないが、おれの人生の好みとして、ちんたらさせろ、楽して儲けたい、不義でいいから衣食住の心配したくねえ、場合によっちゃ革命だばかやろう、みたいなところがあって、そこんところでセンセイと意見が合わねえ。もし、おれがもっと穏やかで安定した暮らしをしていたら、センセイの言うことももっともだねえってなると思うが、四十にしてしょうもないおれは、とことんしょうもないまま、死んでいくのだろうなあ。

とりあえず、以上。

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おれ曰く、以下の本は必読なり。