みんなには信じるものありますか? おれは信仰の内側のことがわからない

寄稿いたしました。

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ドーキンスの無神論から話がそれて自分の信仰の話になりましたとさ。でも、おれのって信仰といえるのかどうか、というのが結論で。

 

結局、唯円どころじゃなく、「救われてるってうれしいな、安楽だな」って気持ちになったことがない。おれなりにいろいろ読んだりして、行き着いたところが一番「楽」な浄土真宗、親鸞の教えだってのはある。あるけれど、それって信仰なのか? 信じているのか? 信じているわけじゃねえよな……。

 

とか言っていると、あれだな、たとえば親鸞の研究をして、大思想家であるとした吉本隆明も、「研究していって、どんどん細かくしていって、粒みたいなところまではいったと思う」とは言っているが、「信仰の内側には入っていない」って何度も言ってる。

 

おれはべつに研究者でもないし、吉本のような思想家でもないのでそこまではいかん。いかんが、「ああ、親鸞の教えっていうのはこういうものかもしれない。悪くない」と思っても、ほんとうに信じているのかというと、「頭で考えただけじゃねえのか」、「楽な方へ行ってるだけじゃねえのか」って気持ちになる。栂尾の明恵上人に怒られるかもしれない。

 

もちろん、救われるために善行をつもうとか、そういう気持ちはさらさらない。死後もなんにも信じちゃいない。浄土もな。正定聚とかもな。なんかそういうのな。でな、阿弥陀如来いるのかよってドーキンスに詰められたら、いや、いねえような気がするよって答えるよな。

 

だからなんだろうね、なんなんだろうか、おれの親鸞への興味というものは。よく、わからんのよ。

 

これ、おれの欠点で、大杉栄最高! と、なったらもうアナーキストになりゃいいはずなのに、そこまではいかない。そういう気持ちでもない。北一輝すごいぜ! と、なっても北一輝主義者になるわけでもない。なんというか、なにか好意的なものはあるけれど、信じるところまで入れない。踏み込めない。信者になれないし、主義者にもなれない。それにたとえば、シオランを信じる、ということはなにか矛盾しているような気すらする。おまえらの言ってることはすげえ好きだが、それはあくまで好きであって……。

 

好き、好意的なものと、そうじゃないものはある。でも、そこまでなんだよ。決定的な体験がない。おれは勝手にそう思っている。もっと、なにか電撃が走るような、そういう体験がない。もちろん、生育環境などから自然と身についている信仰もない。

 

このままなにもなしで、生きて、死ぬのかと思うと、少々さみしくもある。もう、いんちきな新興宗教でも、ろくでもない陰謀論でもいいから、「この世の真実を知った!」という体験をして、「信」の内側に入ってみたいという気持ちはある。

 

でも、その「気持ち」を持っているうちは、だめなんだろうな、とも思う。それとも、圧倒的な「信」というのは、そんなものも吹き飛ばすものなのだろうか。

 

みんなはどうだ? なんにもなしで生きているのか。日本人にはそれが多いのか。電撃的な宗教体験とかあったか。あった人は少ないか。

 

しかし、それは本当にあるものなのか。世の中には人の脳を騙す山程のテクニックがある。テクニックというか、薬物だってある。本当の宗教的体験とそれをどうやって見極めるというんだ? それでも、世界中のおれたち愚かな人間、大昔から嘘に騙されて、ここまで来ちゃったのかな。わからないことだらけだ。超自然的なことなんてありうるのか。

 

あ、でも、一つ、一つだけドーキンスに怒られることを最後に、もう一つ。ドーキンスはダーウィン進化を根拠に、創造者なんてものはいないんだって力説するけど、ハナカマキリの仲間だけは、あれ、だれかが作ったよな。盲目の時計職人とかじゃなくて、遊び心のあるやつが。あんたはどう思う?

 

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