『単一民族神話の起源<日本人>の自画像の系譜』を読んで

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

単一民族神話の起源―「日本人」の自画像の系譜

 大日本帝国単一民族の国家でもなく、民族主義の国でもない。否、日本はその建国以来単純な民族主義の国ではない。われわれの遠い祖先が或はツングスであり、蒙古人であり、インドネシヤ人であり、ネグリイトであることも学者の等しく承認してゐるところであるし……帰化人のいかに多かつたかを知ることができるし、日本は諸民族をその内部にとりいれ、相互に混血し、融合し、かくして学者の所謂現代日本民族が生成されたのである。

 日本民族はもと単一民族として成立したものではない。上代においてはいはゆる先住民族や大陸方面からの帰化人がこれに混融同化し、皇化の下に同一民族たる強い信念を培はれて形成せられたものである。

 この二つの文章は、いずれも太平洋戦争中の一九四二年に発表されたものである。前者は総合雑誌の巻頭評言で、後者は文部省社会教育局が発行した本の一部だった。
 一九七〇年代後半から、多くの論者が以下のように論じてきた。「明治いらいの日本人は、自分たちが純粋な血統をもつ単一民族であるという、単一民族神話に支配されてきた。それが、戦争と植民地支配、アジア諸民族への差別、そして現在のマイノリティ差別や外国人労働者排斥の根源である」と。だが、そうだとすれば、上記のような文章の存在はどのように位置づけられるのだろうか。

日本ってなんだ?的な本を読み、つづいて「日本人ってなんだ?」的な本を手にとってみた。が、これは「日本人ってなんだ? って日本人がどう考えてきたか?」って本である。若干当初の目的とは逸れるものの、上に引用した序章の冒頭部分を読み、すげえ興味深いって思って手に取った。なんというか、最近の右翼的というか、ネトウヨ的な排外主義っぽさって、なんとなく単一民族神話的かと思ってたんだよ。しかし、大日本帝国がそうおっしゃっていたのか、と。
●本書は「社会学者からみれば細かすぎ、歴史学者や思想史家には大風呂敷の空論にみえるかもしれない」と著者は同じく序章で述べているが、そんなガクジツ的なことは俺にはわからんが、非常におもしろかった。べらぼうに、だ。いろいろの人間が紹介されていて、ハブになる本だし、図書館で借りて読んだが、たぶん買うと思う。
●引用というか、自分のためにメモを残しておきたいところは山ほどあるが、ここのところ仕事が忙しくて、腕の痛み的にそんなにキーボード打てないから上にとどめる。というわけで、以下のメモはパラパラとはめくりながらであれ、俺が適当に書いていることであって、実際に本を読むべき。
●第2章のタイトルは「内地雑居論争」。1889年ころの話。それまで特定の場所、要するに関内なら関内の外国人居留地区にしか外国人が住めなかった規制を解除するかどうか的な論争。これからして興味深い。賛成論のwikipedia:田口卯吉は、もともと日本人はいろんな民族の混合なんだし、神功皇后桓武天皇の例だってあるだろ。人種の坩堝のアメリカをみてみろ、るつぼはたぎってるじゃねえか。今後は日本人もばんばん混血してハイブリッドでさらに強まって世界に雄飛していくんだ! って主張する。それに対してwikipedia:井上哲次郎は、文明の進歩から体格から外国人に比べて日本人は婦女子のごとき劣等人種にすぎないから、そんなことしたら植民地化された南方の二の舞だ。混血、ダメ、絶対! って主張。結果は雑居派が勝利するんだけれども。
●それぞれの背景に混合民族説と単一民族説(ただ、当時は単一民族説は旧時代の攘夷派あつかいだったからあんまり主張しにくかったらしいが)があるわけだけれども、俺はなんというか、井上哲次郎の話が興味深かった。なんといか、当時のエリートとしてヨーロッパに留学して、その文明と自国を見比べて、すげえ圧倒されたんだろうな、と。それで、中国人や韓国人に比べてすら体格が劣るって西洋的な統計みたいなのを持ちだして、すごい自虐的なのよ。しかしまあ、それも考えてみれば当たり前だろうみたいな。なんというのか、今は日清、日露も太平洋戦争も高度経済成長も終わったあとから見てるけど、当時は客観的に見て未開の土人小国であって、自信の持ちようなんてなかったろうというか、せいぜい排外主義と民族団結でなんとか生き残ろうくらいの話だったかもしらん。
●でも時代は進むわけで、日清日露を日本は勝つわけだ。それで井上は「日清戦争の勝利が日本民族精神の優秀性を立証した」みたいになっていく。体制側の大物として、教育勅語や戦陣訓に関わっていく。ある意味、日本を戦争に走らせた側の人間ということになるかもしらん。でもさ、ここのところ、なんというのか、なんつーのだろうね、そんぐらい増長しちまうくらいの話だったのか、みたいな、あの『坂の上の雲』はさ、みたいな。
●まあ、なんというか、本書にはいろいろな学者、政治家、官僚なんかが出てくるわけだけど、どっかしらそういう印象をうけることが多かった。むろん、現代から見ればしょうもない錯誤、勘違い増長、差別観があったとしても、未知の脅威に、局面に、それぞれそれなりにやってきたんだろうと。「今の価値観で過去を裁くな」というのはいまいち乗れないが、かといってなんつーのか、なんか難しいが、結果的にどうあったかというところで断罪されるべきだが、一方で、どうしてそう考えたとか、どんな情況だったかとか、そこんところ見逃したりしても意味ねえよな、とか。
●とか、そういうことについて、著者が本書の裏テーマ的な部分であるみたいなふうに「あとがき」で書いてあって、あながち間違った読み方じゃなかった、みたいに思ったりもした。
●地獄への道は善意で舗装だとかいうが、そういう話だってある。wikipedia:喜田貞吉は「差別の解消」に一生取り組んだ人物ではあった。被差別部落アイヌへ、当時としてはそこまで理解を示し、共感し、なんとかしようという知識人は少なかったという。なんだけれども、解消の方法が今日的に見れば彼らを帝国臣民にする一方的な同化政策、であったとしたらどうか。みな同胞、というときの暴力性みたいなもの。日露戦争でのアイヌ兵の受勲率は85%もあったという。日系アメリカ人で組織された第442連隊戦闘団のような話だ。そしてさらに、こういった考え四海皆同胞みたいになって、やがては台湾や朝鮮への進出の材料や支配理論のベースになっていくという皮肉。
●『歎異抄』の「 わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」。それが免罪符であってはならんし、本願ぼこりであってはならんが、しかし、どっかそんなふうな底の底の最後のところで救われるなにかがなければ、人類史というのはあまりにも悲惨に尽きるし、今生きる我らにも絶望しかないのではないか。如何。
アイヌといえば、ロシアとの間でまだまだそのあたりも現在進行形みたいな話もある。なにも片付いていない。
●それはそうと、単一民族神話の話だった。さっきの話のまま、混合民族説だけがその後つづくわけじゃない。国体論いうもんが出てくる。「天祖は国民の始祖にして、皇室は国民の宗家たり。父母拝すへし況や一国の始祖をや」的な、天皇を父とするような、「血族相依るは自然の団結」的な考え方。これにて明治より前は藩単位みたいにバラバラだったもんをまとめ上げていかなければいかんというような。そんでこれは、西洋のごとく力で他民族を支配するようなんと違うよ、と。というか、この時点でまだ日清戦争より前だから。で、これで行くと当然ことながら日本人の歴史が天皇の歴史を共になくてはならんし、単一民族論を支持する方向に行かざるをえない。
●が、現実がその国体論を維持できなくなる。大日本帝国が外に進出していくからだ。台湾併合がそれであり、さらには朝鮮併合。日本は多民族国家になってしまった。単一民族論で行くと、それらの植民地支配の大義名分がなくなって、欧米列強と同じということになってしまう。かといって、それら諸外国の民族を同胞とすると、単一民族説は崩れる。
●かくして、ともかく、冒頭のように、基本的に、日本人は混合民族であって、台湾や朝鮮とひとつになるのは里帰りみたいなもんだ、みたいな話になる。日鮮同祖論。そっちほうが都合がいい。だから、朝鮮総督府は友好国のドイツのユダヤ人差別を批判するような主張までしている。互いの民族の結婚まで推奨している。でも、著者の言うとおり、ここで「ナチスよりまし」とか言ったところでしょうもなく、別種の悪、にすぎないのだけれども。
●ところで、この本が出た6年後の話だが、wikipedia:桓武天皇のところにもあるけれど、今の天皇「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」ってのがあって、当時も話題になったように思う。これに対して、左右それぞれから微妙にねじれた評価や批判みたいなのがあったように思うけれども、「この理屈が韓国併合の建前論につながったんじゃねえの?」という意見を見た覚えはない。まあ、べつに俺がすごく興味持ってたわけでもないし、あったかもしれない。でも、わりかし微妙な「お言葉」だったんじゃねえのか、とかあるいは、韓国内の反応の中にはあったろうかどうだろうか。
●ただ、単一民族論(この単一民族という言い回しも、最初は否定的な使われ方として登場したらしい)、国体論の方も一発ひねり出す。「養子」ってもんがあるじゃん、と。これならどんなとこにも拡張していけるじゃん。んで、この「養子」がありかなしか、家族とかなにかについては、中国、韓国とはぜんぜん考え方が違っていて、まあいずれにせよ植民地支配は受け入れられんものであって当然だが、まったく理解されなかったと。
●それで、あと、帝国は混血政策を推す一枚岩かというとそんなわけもなく、海軍省の懇談会とかじゃ和辻「如何ナル民族モ雑婚シ成功セルモノ無シ」みたいな話してて、ローマ帝国を教訓にすれば他民族を軍隊に入れすぎると国が滅ぶみたいな話もしていたり。まあ、一枚岩なんてものはありはしない。さざれ石の国だもの。違うか。まあいいや。
●というわけで、侵略の正当化と同化政策には混合民族論が便利、でも、混血を否定すると大義名分がなくなるというダブルバインドに陥っていくとか。
●なんかだんだん疲れてきた。
wikipedia:津田左右吉っているじゃん。もう、小学校か中学生のころの知識か、なんかお国に逆らって発禁くらった学者みたいなぼんやりしたイメージしかなかったけど、なんつーか、そんな単純じゃねえなって。津田は要するにっていっていいかわからんが、中国嫌いみたいなんで、『記紀』が史実じゃなきゃ困るなんてのは中国的な考えだ、とか、本居宣長平田篤胤なんかも「事実で無ければ価値がないといふ」「浅薄なる支那式合理主義」にすぎない、とか。『記紀』に書いてあるような支配や征服の歴史は天皇の歴史にあってはならんことで、天皇は諸士族の調停役であって、自然な情なんだって言う。そんで、日本は中国とぜんぜんちげえし、東洋文化なんてものはないんだ、中国が東洋文化の本家を自認している以上、文化の共通性なんて言っちゃあいけねえんだってんで、「文字そのものに支那思想が宿つている」とか、漢字廃止論までいったりしてておもしろい。
●漢字廃止はともかく、調整役としての天皇、象徴としての天皇、みたいなところは戦後受け入れられていく。さらに、『記紀』神話解体みたいなところもマルクス主義的な史観みたいなものに歓迎される、と。ただ、著者が「厳密なテキスト批判をつきつめたうえで人智を超えたものとして神話を神聖化する方法論は、本居と同型であった」みたいなところは、なんなのかわからんがすこし興味がある。
●と、気づいたら戦後になってたし。そう、もう戦争の方は民族起源論どころじゃなくなって負けてしまって、また日本は人口の三割を占めていた非日系人がいなくなり、ほぼ元のような状態になったと。あるいは今のように。そして、アイヌについては看過され、残された在日朝鮮人に対しては積極的に帰国させることもしなければ、帰化させることもせず、あいまいに見て見ぬふりをしてきたと。それで、混合民族とか言ってたのは大日本帝國の侵略思想にすぎないし、「やっぱり日本は単一民族の平和国家なんだよ、本来」ってところに引きこもって(?)いって、その象徴が象徴天皇だったと。そこにさっきの津田先生や、和辻哲郎先生の影響が大きかったと。ある部分でマルクス主義者も、その唯物史観から原始的共産主義ををイメージするのに都合がよかったと。
●で、戦後も遠くなりにければ、競争の厳しさを知らない(から無謀な戦争をしたりもした)特殊な日本人論みたいなものが定着していったというわけでして、ここにある種の神話ができたと。ようわからんが、網野善彦赤坂憲雄とかはそれに対する反発で「いくつもの日本」的な考えを出してきたのかしらん。
●ほんで本書は、最後に、経済的成長を遂げた日本がさらに世界に向かっていく、あるいは世界から移民を受け入れていく中で、混合民族論が台頭してくるんじゃねえのか、みたいな話もある。
●例として、石原慎太郎とかいう人が1968年に「ほぼ単一民族といえる国民が、他の国とまったく共通しない単一の国語を話、まったく独自の文化を、かくも長い期間にわたって形成して来たという例は、他に、まったくといっていいほどない」って言ってたのが、1994年の『NOと言えるアジア』で「日本は独特の単一民族であるという論があるが、とんでもない」「日本人は全アジア系の混交民族です」と転向していると挙げられている。
●でもさー。

前文では「グローバリゼーション」や「地球市民社会」などを幻想と断じ、「一国家で一文明」の日本の創生を訴える。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/120203/stt12020312050001-n1.htm

 とか言ってるじゃん。……って、まあ、混交民族としてものっすごい早い段階に成立したあと、ほぼ単一で長かったんだ。国家と文明はもっともっとあとの話だ、みたいな取り方もできるかもしらんが。とくに前者は単一民族論者が昔から言ってきたことでもあるが。
●しかしともかく、なんとなくではあるが、著者の懸念する1995年時の混合民族論台頭系の感じというのは、今現在あんまり受けない。むしろ逆で、偏狭な単一民族主義みたいなのが流行りつつあるとか、ある種自虐的な日本人特殊論があいも変わらず幅をきかせてるとか、そういう感じ。いや、グローバリゼーションというものは否応なく、それに対する防衛みたいな面はあるのか、排外主義。やはり今は第二の敗戦とでもいうべきか。
●でもまあ、どっちにしろ大差ない。結論、あとがきの方で著者が述べているように、はっきりと証明できる話じゃない民族の起源なんてのは、自分の願望を反映させてるだけのもんだ、自分を正当化する神話がほしいだけなんだって、そういうことなんだろうね。必要なのは神話からの脱却、と。
●個人的にいえば、俺がいま取り組むべきは俺の個人神話からの脱却というか、自分にかけた呪いの解除が優先事項であって、日本について考える、なんてこと自体が逃避ではあるのだが。いやはや。