渡辺京二『北一輝』を読んだ

北一輝 (ちくま学芸文庫)

北一輝 (ちくま学芸文庫)

俺が読んだのは前に書いたとおり朝日選書版

 ようやく読み終えたが、これは抜群におもしろい評伝だった。著者の舌鋒がひどく鋭く、先行する北一輝研究に対して「この論文の文脈がまったく読めていないからである」だの「北の主張でも何でもありやしないのだ」だの「何もかもめちゃくちゃではないか」だのスパスパ切り捨てている。おもにぶった切られてるのは松本健一という人と松本清張だった。松本清張に対してはこんな具合だ。

 松本のこの本は北研究上の珍本といってよく、北に対する無知というしかないいいがかりにみちている。しかも、それはことごとくテクストが読めないことと、基本的な素養の欠如に起因していて、いちいち暴露するのも気の毒のような態のものにすぎない。

 なにかこう、北一輝に対するいいかげんな先入観からの誤読許すまじの気概に満ちているようで、その怒りのようなものは『権藤成卿』の人みたいだった。けど、そのぶった斬りっぷりは北一輝にも容赦無く向けられていて、わりとエキサイティング。読むべき。以上。
 いや、もうちょっとメモしておこう。
 まず、著者は『国体論及び純正社会主義』を日本近代政治思想上、五本の指に入るものとし、これが「思想家北のすべてである」と言い切っている。『支那革命外史』も名著だし、『日本改造法案』も問題的な文書だが、ともかく『国体論及び純正社会主義』だと。

 北は今日でもなおある種の人びとから、その生涯の思想のモチーフが日本近代天皇制の正当化にあったかに、思い誤られている思想家である。ところが彼は何よりもまず、明治の天皇制国家を敵とみなし、その止揚の方途をさぐった思想家なのである。

 北の思想の根源的モチーフに即していえば、彼は何よりもまず、維新革命の特異な性格が必然的に生み落した、日本的コミューン主義の系列に属する思想家である。西郷を発端とする日本的コミューン主義者は、すべて、来るべき革命を第二維新革命としてしか発想できなかったのであるが、北の思想家としての存在理由は、このような第二革命のテーマに対して、もっとも近代的、かつもっともよくできた解を提出した点にある。

 それでもって、北の社会主義は理論でなく信仰だとかロマン主義だとかいう意見をこの著者は一切否定するわけ。その上で、こんなことも言ってる。例の進化論について。

 いうまでもなくこれはすべて疑似科学である。彼の進化論の社会理論への導入は、すべてこういった思いつきにすぎず、自分の理論を科学的に粉飾するためのものであったといいうる。

 が、

 だが、そんなものは導入せずとも、彼の全政治思想は論理的に成立することができた。個人的利己心は社会的利己心と一致するべきである、個人は即国家であるべきであるという彼の政治思想は、それが人類史の展開過程中に根拠を持つものであるがゆえに、進化論の支えなどなくとも自らの足で立つことができた。

 ってさ。それで、「神類」や独特な恋愛観も「じつはういういしい近代的ヒューマニストの内面をもっていたことのあきらかな証拠」という。

たとえば彼は、愛によって結ばれた家庭が、貧のために惨劇の場になりおえる様を、いかにも彼らしい「張り扇の音」のする名文で活写する。「羊の如き天亶の主人は狼の如くなって世に戦い、昔日の希望に輝ける活気は失せて、三十にして老者の如く衰へ、簿鬚の下に湛へたりし微笑は石の如く閉されたる陰暗の唇となる、海老茶の袴に花の如く笑まひ小鳥の如く囀りし少女は一瞬に去りて、その豊頬は生活の苦難の為めに落ちて亦笑まず。」
 これはなんの叫びだろうか。魂を殺されるのはいやだという叫びであって、このように北は何よりもまず、明治天皇制国家が、そのもとで生きる人間の魂を圧殺することへの怒りから、革命家となった人である。

 彼は精神の可能性をはばまれるのが、いやなのであった。そして、衆人の魂がそこで高くはばたけると信じたからこそ、彼は社会主義を求めた。彼には、類的存在としての人間は、過去のすべての遺産をとりこみながら、より高きへと展開するものというイメージがあった。明治において、このようなイメージに導かれて社会主義者になった人間は、彼のほかにひとりもいなかった。

 このあたりの北の「張り扇の音」(これは松本清張が北の文章を評した表現)、原文を確かめようとおもえば片手のiPhone、インターネットで読めてしまうのだから便利だというのはどうでもいいが(思わず目がそっちに行ってしまうので読むのが遅くなったりもしたが)、渡辺京二の筆の調子もいい感じ。
 しかしまあ、ここのあたりでようわからんのは、大杉栄はだって「魂を殺されるのはいやだ」という人間であって、しかしなんでこう、なんかこう、すげえ違ってくるあたりの、なんかこうねぇ、なんだろうね。北はやはり社会は設計できるちゅうタイプだったんかね。でも、北もあんまり組織づくりや党派活動は苦手みてえな、一匹狼みたいなところもあるし、でも、人は集まってきちゃうとか、なんかね。似てたり似てなかったりすんのかな。
 そんでもやっぱりなんかさ、北先生の理想のところの世界が、俺にはようイメージできんというのは正直なところがある。読めていないのかもしらんが、自由という二文字がどうも感じられない。
 まあそんでもしかし、あれだな、西郷隆盛の第二革命、これの挫折のあたりとか、そのあたりは興味深いというか(しかし、「大西郷」とか、「聖徳太子」とか、なんかこのレベルのビッグネームになっちゃうと、その思想性とかいわれると、「あー?」みたいになっちゃわない?)。そもそも明治国家にでかい間違いがあって、東洋太平洋戦争で焼け野原になっても、そこの近代化の根っこのところで失敗してて、今の憲法が押しつけだどうだという以上の、あるいは、以前の問題があるんじゃねえかとか、そいうのはなんかありそうな気がする。

北の天皇制論を貫いている赤い糸は、一言でいえば<擁立された天皇>というアイデアである。つまり、天皇は維新革命の必要のために擁立された国家の道具にすぎぬという見かたで、この視点のユニークさのために、『国体論及び純正社会主義』は、天皇制について戦前提出された見解のうちで、もっとも重要なもののひとつとなっている。

 「大日本国憲法」は、上からの憲法構想と下からの憲法構想の対抗過程をへて、明治専制支配者の勝利、民権論者の敗北の表現として出現した憲法だ、というのは今日の痛切である。だが、北の生きていた時代の人間に、そういう深刻な挫折感があったかどうかはきわめて疑わしい。彼らは、明治の天皇専制主義がついに昭和の「天皇ファシズム」にまで昂進した結末を知っている後世の人間ほど、明治国家における天皇制支配を絶対的ないし不動のものと考えていなかった、とみる方が事実に近いだろう。

「日本国民が天皇の政権を無視す可からざる義務、あるは天皇の直接に国民に要求し得べき権利にあらずして、要求の権利は国家が有し、国民は国家の前に義務を負うなり。」
 天皇よ、錯覚するな、と彼はいいたいのだ。汝は維新前に、神主の大なるものにすぎなかったではないか。誰のおかげで、民主国日本の天皇になれたのだ。分を知らねばならぬ。汝の特権は、国家が必要と認めて付与してやっただけだ。だからといって、国民を自己の臣民視するならば、汝はただちに国家の反逆者となることを銘記せよ。

 ま、発禁にもなるな。しかしこの、国家主義というのか、著者の擬ファシストというあたりか、まあ国家主義なんだろうな。それでもって、「日本国民は万世一系の一語に頭蓋骨を殴打されてことごとく白痴となる」とまで言い切ってて、そのあたりと、じゃあ例の青年将校たちとの感覚の差は? となると、まあうまくいかんというか。昭和維新といって、そこで昭和天皇を武力で制圧することができたか、となると、天皇は手強いよな、とか漏らしてたのもわかるというか。日本的コミューン(≒社稷?)における天皇とは、みてえな。

 しかし、北の天皇イデオロギー批判でもっともすぐれた箇所は、国家が規制できるのは国民の「外部的生活」だけで、その思想・良心という「内部的生活」に立ち入ることはできぬと主張するところである。彼はこの論理で完全に教育勅語を葬り去った。

 そんで、こんなんな。この箇所とか。

しかしながら日本天皇はもとよりローマ法王に非ず。天皇は学理を制定する国家機関に非ず。故に巡査が勅令を出すとも無効なる如く、天皇が医学者にバイ菌学上の原理を命令し、理科大学に向かって化学の方程式を制定したる法律を下すとももとより効力なし。国体論中の土偶と明晰なる天皇とを混同することは決して許容さるべからず。天皇は詠歌において驚くべき天才を示しつつありといえどもしかも星と菫とを歌う新派歌人を詠歌法違反の罪を以て牢獄に投じたることなきがごとく、天皇がいかに倫理学の知識に明らかに歴史哲学につきて一派の見解を持するとも、吾人は国家の前に有する権利によって教育勅語の外に独立すべし。

 「外部的生活の規定たる国家において天皇の可能なる行動は外部的規定の上に出づる能わず」ってな。内心の自由ってな、今現在、大切なもんだよって言ってるわけじゃん。国旗国歌だのの話は盛んじゃん。まあしかし、命ずる主語は天皇ではなく……なんだろうね、たとえば橋下とかいう人は政略上のもんでああいうこと言ってると思うんだけど、そのバックは国家なのかね。まあ、今のことには興味あんまりないというか、最近読んでる本からわかるように、まだ昭和にも入ってるかも怪しいところだし。
 けど、たとえば北一輝が今の日本の平成の象徴天皇を見たら、分を守ってるじゃねえかって評価したかね。それとも、ぜんぜん社会主義化してねえし、「神類」に進化した風でもない国に失望するかね。それより前に、英米支露と戦争して負けたところを「だからやめろって言ったじゃないか」とか言うか。しらんが。
 そんで、なんだろうね、まー、なんかとくに「この本で北はこう紹介されてて、私はこう思いました」みたいな前提なしに書いてるだけで、キリもないからやめるけど(これがブログのすてきなところ)、まあ、ますます北一輝はおもしれえなって思いました、とか。この著者から「天則まかせの機会主義的思考」だの、「革命家としての一種のイムポテンツ」だの言われてるあたりとか(それってたとえばある意味、幸徳秋水大逆事件の裁判で言ってたようなことじゃん、とか今思ったけどどうだろ)、信仰生活に専心していた(かどうか)の「最後の北一輝」とか、なんか興味は尽きねえよな(本書の著者は、俺にはわかんねえから立ちいらない、みたいに言い切ってる)、と。ああ、あと、中国革命への関わりとかは、もっと興味は尽きないので、またなにか読んでみたいと思う。おしまい。

関連☆彡

 これは「神類」にスポットを当てたりした、わりと極端な本だったけど、一冊読んでると違うよな。けどやっぱそろそろきちんと『支那革命外史』でも読んでみるか。『霊告集』もある種おもしろいようだし。

逝きし世の面影 (平凡社ライブラリー)

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評伝宮崎滔天

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 あと、この著者のほかの本も読んでみたいな、と。