あの日おれが見た彼女のワンツーストレートを忘れない

 おれの夢はAdobe Illustrator CS3だった。スポイトで色を拾おうとしたが、太さまで一緒に持ってこないようにしようと思った。そこで目が覚めた。おれは今日ロードバイクに乗らなければ、一生乗ることはないだろうと思った。だからおれはそのようにした。
 予備のチューブどころか、ロックすら持たずに漕ぎ出した。ポケットに財布とiPhone、アパートの鍵。OGKの兜も、RUDY PROJECTの色眼鏡も久しぶり。ボトルの中には水道水。ローレライまで行くこともない。燃料が切れたら帰ればいい。そう思って、おれはみなとみらいの方へ行こうとして、なぜか逸れてしまって、桜木町の場外のある裏山を降っていた。
 降って信号にひっかかった。さっき鼻をかすめたカレーのかおりは、例の小さなスープカレー屋のものか、中洲にあるネパール人の店のものか、そんなことを考えた。野毛の山に登る人は多く、桜木町の場外というのはなんなのかよくわからないが、そういった人の姿も多かった。
 そんなことを考えながら赤信号を眺めていると、とつぜん「コノヤロー!」と女の声がした。見やれば、神奈川銀行の横のコインパーキング、支払機に女が喧嘩を売っているのだった。金髪のロングヘア、白と黒のヒョウ柄、黒柄の網タイツ。
 そして、繰り出されたのだ、彼女のあのパンチが。見事なストレートだった。槍のように真っ直ぐだった。あんな見事なストレートというものを、生でみたことはなかった。コインパーキングの支払機は「バン!」と音を立てた。すると間髪入れずに彼女は逆の手でまたストレートを放った。それもまったく真っ直ぐだった。また哀れな支払機は「バン!」と音を立てた。おれにはボクシングの技術のことなどわからぬが、まったくあれこそがストレートだと思った。ワンツーストレートというものがあるかどうか知らぬが、まったく見事なものだった。
 しばらくすると、セカンドバッグを持ったパンチパーマ、服は例のネズミの柄のトレーナーのが出てきて、彼女の肩に手をかけ、抱き寄せ、抱擁した。まったくそれですべてはおさまってしまったし、目の覚めるようなすばらしいできごと、おれの目撃は終わったのだと思った。女はさっきのストレートがどこにいったかわからないくらいの千鳥足で男にもたれかかって、二人して桜の散っちゃった大岡川の歩道に消えていった。おれは自転車を漕ぎ出した。
 中村橋から丁字路までの川沿いの道を走った。散った桜の花びらがいくつかの筋模様をつくってのどかなものだった。「走水まで26km」の道標を見た。おれの自転車はとても軽くて快調だったし、行って帰るなんて簡単なことだ。……とは言いがたく、また、根岸の不動坂を登るほどの酔狂もせず、すっかり葉桜の本牧通りを走って帰宅した。ユニットバスで鏡に向かってワンツーパンチを繰り出してみたが、どうにも不恰好でさまにならず、彼女の槍の突きのようなものにはならなかった。

DST17.83km
AV23.5km/h

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 ほんとうにこれ以来いっさい乗っていなかった。