小さな犬を救えなかった話


1

 自転車を漕ぎ出したころには、すっかり外は暗くなっていた。買って組み立てて、それからなんども乗っていないロードバイクだった。
 新しい年のはじめ、おれはその自転車に乗らなければいけないような気がしていた。ここで乗らなければ、ずっと乗らなくなってしまうような、そんな気がしていた。おれは、昼頃からサイクル・コンピュータとライトの設置場所、電池の入れ替え、ブレーキの調整、そんなことをはじめた。気がつくとあっという間に時間は過ぎてしまう。
 おれはぼんやりとコースを思い描いた。山手本通りから港の見える丘公園、左折して山下公園の前を通ってみなとみらい。帰り道についてはなりゆきだった。最短の山手隧道を通るか、中村川の方を通るか、それとも産業道路を通るか。
 まったく、どれでもいいことだった。おれには早く帰らなければいけない理由もなければ、長く乗らなくてはいけない理由もなかった。トレーニングでもないし、決まったコースなんてない。どことなくばかばかしいと思いながらも、なにか儀式的な走り初めだと、そんなふうに見立てていた。
 サイクリングは順調だった。取り付けたばかりの部品が落ちたりもしなかったし、異音もしなかった。短い旅程を粛々と進んだ。初売の客で賑わうみなとみらい地区を過ぎ、適当に左折レーンに入ってそれに従っていたら、山下公園の端の方に出た。
 なんとはなしに、やけに時間のかかる二段階右折の動作をしてしまったので、産業道路の方に行くことにした。山下公園のトイレに寄るか少し迷ったけれども、よほど行きたくなったら途中で本牧通りに出ればいいだろう。見晴らしトンネルか、山手警察署のところで右折して早く帰ればいい。
 まったく、わるくない気分だった。フルカーボンのロードバイクはばかみたいに軽くて、漕げば漕ぐほど進んだし、空気は冷たかったけれど耳が痛くなるほどでもなかった。前照灯も後方赤色灯も役目を果たしてよjく光っていたし、三ヶ島のペタルはもとからトゥークリップ用に作られていて、蹴返しなんかつけなくてもスパッと足に入った。まったく悪くなかった。

2

 暗くなった道路の前方に、白いものを認めたのはどの地点だったろう。見晴らしトンネルは意識的に通過したのを覚えている。山手警察に曲がる小港の手前か。右の路線を走るバスの挙動が少しおかしく、それと同時に、それに気づいた。白いもの、白い生き物、白くて、小さな犬が一匹、車道のど真ん中を走っていた。けっこうなスピードだった。もちろん、飼い主の姿なんて見えなかった。
 よくわからないが、おれが最初に感じたのは「猫だったらよかったのに」だった。猫だったら、すぐに走るのに飽きて、適当に歩道に避けてくれるんじゃないかと思ったからだった。勝手な想像だ。車道では猫のほうがよく事故に遭うという。ただ、おれは犬を飼ったこともないし、ほとんど犬に触れたこともなかった。だからそんな風に思ったのかもしれない。けど、パニックになって車道を走っていく犬を見たことはあった。あれも夜、吉浜橋のあたり、キャンキャン吠えながら。
 そんなことを思って、おれもバスと並走するように様子をうかがっていると、犬はどんどん右の車線によれていく。犬にキープレフトの概念なんてない。それどころか、どうしても広い方へ行こうとするように見える。
 いま、右車線先頭のバスは犬に気づいて速度を落としている。だが、たまたま流れが変わったら? もし、対向車線の方に突っ込んでいったら? そんなことが頭をよぎった。おれは後方を確認して、自転車の速度を上げた。
 犬の右側に入って、右車線と対向車線への侵入を阻止する。できたら歩道に誘導する。少なくとも左車線に押しとどめる。おれが左車線の中央や右寄りを走ることになる危険はあるが、表面積も大きいし、後方赤色灯もある。……結果的に、おれの作戦というのは、これだけだった。それ以上のことは考えられなかった。犬が、おれでも車道でもなんでもいいが、危険を察知して歩道に行ってくれればそれでいいという、犬頼みの話だった。おれを怖がってくれていいから、歩道に逃げてほしいのだった。ともかく、あの速度に、それなりに安全に近づけるものというのは自転車くらいのものだったし、たまたまおれは自転車に乗っていて、ほかに自転車は走っていなかった。
 ハンドサインを出し、速度を上げて、犬と並走状態になった。速度を上げて、だ。犬は赤い服を着ていた。おれは正直、小さな犬がこんな速度で走り続けられるとは思ってもいなかった。サイコンを見る余裕はなかったが、20km/hではまったく足りなかったんじゃないかと思う。25km/h前後をキープしなければいけない、そのくらいの印象。「大丈夫、大丈夫」と犬に呼びかけながら、おれ自身が大丈夫かという気にもなった。なにせ、おれが犬をはねてしまっては元も子もない。犬を見ていて転倒してもいけない。おまけに乗りこなしているとはいえないロード。難儀な話だった。犬だって大丈夫には見えないだろう。
 結局、おれが並走したところで犬は全速力で走り、左に寄せていこうとしても歩道に入ってくれる様子もなかった。少し斜め前に入って進路を塞ごうとしてみると、速度は落とすが、パッと身を翻して急加速し、通り抜けてしまう。下手すると右側にまわろうとする。左に引き込みレーンのようなところがあって、そこでおれがいったん止まってみて「おいで!」と呼んでみても、おれをまったく無視して犬はひたすら直進していってしまう。おれはまた追いかける。
 それでもなんとか左に押し込めることはできたが、交差点が近づいてきてしまった。小港の交差点、信号は赤。右折した先には山手警察署が角にあって本牧通り。おれの帰り道候補のひとつ。バスは右折するから右折レーン。おれはいちばん左の車線、ブレーキをかけて停止線で停止した。自転車でここから右折して帰るには、いったん左折して歩道にあがり、歩道橋を担いでわたる必要があって、おれは、そのめんどうな道筋を頭に浮かべた(まあ、手前で左折しなかったので、直進しか進路は残されていなかったのだが)。そうだ、もう、おれは右折して帰ってもいいんじゃないか。そんなふうに思いながら、犬がいっこうに速度をゆるめず交差点に突っ込んでいくのを見ていた。そして、犬が信号のタイミングと左右のドライバーの注意深さに助けられ、直進して産業道路の方に行ってしまうのを確かめると、信号は青くなって、また追いかけることにした。
 そのあとしばらくのことは、順序立てて思い出せない。信号で止まったりしたような気もするし、歩行者が気づいてなにか声を出したりしたようにも思う。ガソリンスタンドの店員が気づいて出てきて「追いかけたほうがいいですよね!」とべつの店員に聞いている前を通ったりもした。もっとも、人間の脚であれを追うのは無理だろう。そうだ、でも、走って追ってくれている人もいた。自動車から犬の走るを見つけた人だろう。ハザードを出し徐行している車もいた。それでも、事情がわからず後ろから追い抜いてくる車もいたし、クラクションも鳴らされた。犬に鳴らしたのかもしれないが。
 ただ、おれは左に押し込んでいって、慎重に斜行して切れ込んで速度を落とさせて……の繰返しで、それ以上のことはできなかった。圧倒的な力量差のあるチャンピオンを前に、練った作戦を封じられて手詰まりになったボクサーみたいだった。自転車に乗ったまま犬を手でどうにかするのはまったく不可能だったし、かといって車体ごと体当たりさせるわけにもいかない。捕まえるために自転車から降りようにも、その間に犬は走りさってしまう。とにかく犬が走りやめてくれさえすればいいのだが、速度が落ちてきているという感じすらしない。おれが追いかけるのをやめたら止まるのかといえば、やはり信号やなにかで引き離されても止まる気配はない。今後ますます他の道との交差点や合流もあるだろうし、事情を知らない車がうしろからどんどん来てしまうかもしれない。
 「おれがいたほうがマシなんじゃないのか?」。結果、おれはそう判断し、犬を追い、並走し、逃げられ、追いかけ、を繰り返した。繰り返した、といえるほど繰り返したのか、それすらもよく覚えていない。

3

 結局、高速道路の下を走る、産業道路に出てしまった。ここはもう歩道と車道がはっきり区切られていて、沿道に店やなにかもなく、横断歩道もほとんどなく、走る車は比較的スピードを出す。片側二車線、自動車専用道路ではないが、自転車で走る場合もそれなりに気を引き締めるような道。その入口の信号が、赤だった。おれはやはりブレーキをかけて、ストップした。ここで歩道側に逃げてくれればと、そう願った。願ったが、犬は対向車線に入っていってしまった。よりにもよって、対向車しか来ない車線に、入っていってしまった。
 すぐに信号が変わって、横断歩道の青に乗って車線の分かれ目から犬の去っていった道を見た。いや、見ることができただろうか? おれには、対向車線に突っ込んでいく勇気も無謀もなかった。おれはいつも死にたいとかうそぶいているのに、犬を助けようとして死ねるという発想を拒否した。おれは横断歩道を引き返して、左側の車線ではなく歩道に出て。自転車を漕ぎ始めた。右側の歩道を選ばず引き返したのは、その瞬間を知りたくなかったからだろう。車道を走るのも怖くなっていたのだろう。
 広く、だれもいない歩道を、速くもなく、遅くもなく、自転車を漕いで走った。犬との距離はわからない。けっこうな距離の先に、歩道橋があった。歩道橋の向こうには本牧に入る横道がある。ハザードを出して一台の車が止まっていて、男性が一人車道の様子をうかがっている。さっき、走って追いかけていた人の車だろうか。べつの人だろうか。でも、犬のことだ。おれはそう確信した。おれはなんとはなしに、歩道橋の前に自転車を止めて、その様子を見ていた。ずいぶん長いこと見ていた。やがて男性は車に戻り、車は走り去った。
 おれは軽い軽い自転車をかついで、歩道橋の階段を登った。歩道橋の上から、オレンジ色に染められた車線を見下ろした。走ってくる犬も、走るのをやめた犬も見えなかった。おれはしばらくそうしていた。おれは夜の産業道路が好きだし、この光景も好きなのだけれど、まったく違うもののように見えた。おれは軽い軽い自転車をかついで、歩道橋の階段を向こう側に降りた。降りて、来た方に向かって、ゆっくり歩道を走り始めた。おれにはそうする義務があるように思えた。
 向こう側の歩道は、散ったあとに散々に粉々になったイチョウの落ち葉でいっぱいだった。走っている人影があったが、犬を追っているのではなく、ジョギングをする人だった。ゆっくり追い越していった。こんなにイチョウの落ち葉が粉々になるのは、雨が降らないせいだろうか。そんなことを考えた。
 やがて、車道で一台、ハザードランプをつけて停車しているのを見つけた。おれは速度を変えずに横を通り過ぎた。ガードレール二枚とその間の緩衝地帯越しに、車内で携帯電話をするようすと、車の前に横たわる白と赤いなにかをたしかに見た。
 あのサイズのものがあの速度で相対的に突っ込んできて、彼か彼女はなにもできなかったろうし、急動作などするべきではなかったろう。教習所でそう習うものだし、おれが運転手でもそうだったろう。そしてあの犬は、最後までスピードを緩めなかったにちがいなかっただろう。
 ガードレール二枚分に隔てられたおれには下卑た安心感があって、おれは彼か彼女になにか伝えるべきだったのかもしれないが、結局伝えるなにごともないのだと思うことにした。携帯電話でしかるべきところに連絡がいくのだろうと、そう思うことにした。自転車のタイヤは粉々になったイチョウの落ち葉を踏んでしゃりしゃり音を立てていた。

4

 おれはおれの失敗を、立案を、実行を反芻しながら家路についた。べつの帰り道を選ぶことや、トイレに寄る寄らない、そんな選択で、おれがこれに関わらなかったという樹形図はいくらでも展開できるが、それは関係ない話だった。ただ、途中で手を引くチャンスはあったし、おれはそうすることができた。でも、おれはおれの選択でコミットして、その結果しくじってしまった。でも、結局、なにか代わりに最善の選択があったのか、どうすればよい結果がえられたのか、なにひとつ浮かんでこなかった。おれは勝手に作戦を立てて実行して、結局それはまったく運頼みで勝つ見込みのないものだった。きちんと最後の手段を発案できていなかった。ぼんやりと、犬を脇に抱えて、自転車を押しながら山手警察署に行くことを想像するくらいだった。おれは犬を抱えたことなど、今まで一度もなかったのだけれども。
 だれに頼まれたわけでもないのに、勝手な思い込みでよかれと思ってやって、まったくうまくいかなかった。可能性があるとすれば、どこかの段階で手を引くことだったし、そうしたらなにかうまくいったかもしれないという、その点だった。おれはなにかなさなければならない立場にすすんで首を突っ込んで、失敗してしまった。そういうことだった。
 アパートに帰ったおれはまったく汗をかいておらず、体は冷え切っていた。「くそ!」などひとりごちながら手袋を床にたたきつけてみたが、まったく自分でも白々しかった。熱いシャワーをばかみたいに長く浴びながら、ただこのことを書き残しておくべきだと思い、今、こうして書きつけている。こうして、長い言い訳を、自己弁護を。弁護したところで裁かれるのは死後とかいう話だし、あるいは自分で裁くのだろうと思う。そんなことはどうでもいい。
 ただ、あの犬はガッツがあった。白くて、小さかったが、よく走った。それがだれの、なんの慰めになるのかわからない。けれど、あの犬の精一杯躍動する姿を、最後に、間近に見た人間として、決して忘れないよう書いておく。

R.I.P.
〜2012.1.1


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