- 作者: 片山杜秀
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2007/09/11
- メディア: 単行本
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「どうせうまく変えられないならば、自分で変えようと思わないようにする」
「変えることを諦めれば、現在のあるがままを受け入れたくなってくる」
「すべてを受け入れて頭で考えることがなくなれば、からだだけが残る」
……これが本書の第一章からおわりの第四章までのサブタイトルであってすばらしい。横浜美術館の特別展のタイトルのようではないか。ちなみに、メーンタイトルは「右翼と革命」、「右翼と教養主義」、「右翼と時間」、「右翼と身体」である。決して時系列で書かれているわけではない。
どうせうまく変えられないならば、自分で変えようと思わないようにする安岡正篤
で、本書の中で一番おもしろかったのは、安岡正篤を取り扱った第二章・「どうせうまく変えられないならば、自分で変えようと思わないようにする」だ。安岡正篤といえば、ほら、細木数子の……、というか、ウィキペディア先生を読めばなんというか超大物といっていい。数々の伝説を残し、政界・財界・皇室までもが安岡を頼りにしていたことから「昭和最大の黒幕」と評される。
が、昭和後期では戦前戦中の右翼の巨頭という見方をされず、こんな調子だったと著者は言う。
あくまで企業経営者や中間管理職のための人生の指南書の著者であって、それ以外の何ものでもない。要するにファシズムの時代を彩った右翼思想家としては、ほとんどまじめに取り扱われていないのである。
それでもって、戦後右翼を取り扱った思想家からも「北一輝の記念碑に安岡の碑文じゃ興ざめだ」みたいなこと言われたり(あとから検索したら松岡正剛が同じようなこと言っててうけた/そういや中野正剛が自分の名前の由来って言ってたっけ)、「安岡の訃報で北一輝や大川周明と並んで評されているなんて、大川や北の価値も下がったもんだ」とか言われたりする。
さらには、同時代の右翼からも評判はよろしくない。大川周明(ケンカ別れ後)には「うその標本」と日記に書かれたり、血盟団事件のwikipedia:小沼正からもディスられたりしている。口ばっかりで実行しない「口舌の徒」なんか、右翼に嫌われるわけだな。
で、その安岡のバックボーンがどこにあるのかというと、大正教養主義にあると著者は考える。強権的で乱暴で脇目もふらずに集約と進歩に突き進んできた明治。その反作用として現れた大正デモクラシー、大正教養主義。実は、安岡正篤の根っこにはそれがあるという。
新たな教養の素材が、それに向き合う「型」を喪失し、弛緩した時空をうろうろしている人びとに大量に過剰に投げつけられるとき、そこに生ずるのは、何の中心も規範も秩序もない、「どれでもが良き」教養のカオスである。そのカオスこそが、すなわち大正教養主義の世界なのである。
と。当時の空気を象徴する代表的な小説『三太郎の日記』(阿部次郎……青空文庫で読めるね)にはこんなふうにあるという(引用の鍵括弧内ね)。
「一切の存在の中にその存在の理由を―その固有の価値を認めてことごとくこれを生かすこと、個々のものを真正ににんしきすることによつて普遍に到達すること、すべてのものと共に生きてしかも自ら徹底して生きること」を実現すべく、日々努力していれば、最後の調和はやがて訪れてくれるだろうという話になるのだ。あらゆる「教養」を総合し、内面の完成による「普遍」への到達まで、周りはじっくり待っていて貰いたいということである。
うーむ、話を俺に逸らすと、確たる型も持たずふらふらと仏教をアナーキズムを戦後思想を戦前思想をほっつき歩いて、しょっちゅう「考えがまとまるまで五十六億七千万年待ってくれ」などと言う俺(検索欄に「56億」などと入れたまえ)など、なにやらプチ大正教養主義みたいじゃん。やったー。いや、西田幾多郎とかぜんぜん読めねーからダメだー!
……というわけで、若き日の安岡青年も西田幾多郎かぶれみたいなもの書き残したりしているとかなんとか。でも、そのまんまじゃぜんぜん右翼にならんやん。「モラトリアム感覚のコスモポリタン」では、だんだん大正の自由な空気から変質して「型」を求められる時代に型なしやん。阿部次郎が「人格主義」とかいっても、「いますぐすべての人類に叡智を与えてみろ」でアクシズ落ちてきて挫折せざるをえない。そして時代はファシズムとマルクス主義の型を求めていくわけだが。
で、安岡もそんな冬の時代に人格主義で戦いを挑む。
現代人は自ら求めて自己の優越感を放棄し、単なる動物的存在に甘んじようとしている。恐るべき人格の麻痺! 理知の明は盲ひ、情意の力は萎え果てて、次に来るものは何か。長き眠! 死! 然り、然り、そしてそれは同時にわが神の国を「沈みゆく黄昏の国」Der Untergang des Abendlands原文ママ。Abendland"es"でねえのかってグーグル先生が。でも、本書のママか、安岡正篤『東洋文化に対する自覚』のママかわかんない。しかし、こういっちゃなんだが、『西洋の没落』を比しうるほどのみなぎる自信というのはすげえな。坂の上の雲を目指して走りすぎて、気づいたら足元に地面がなかったってくらいなもんだろうか。とないをはるであらう。思ひここに至るごとに私は独り愴然たらざるを得ない。しかもこの内的危険の深淵より眼を挙げて周囲を眺むれば、世間は更に荒涼である。強烈な色彩、喧騒な雑音、たえざる機械的労役と虐使、それらがすべて人間の神経に刺々しい刺激を与へ、暗い疲労に沈んだ人々はみな鉛の如き心を抱いて、せめてその暗い疲労を一時的にでも紛らすべく、さらに官能的刺戟を求めて蹌踉としてゐる。ああ、死の荒野をさまよふ行屍走肉の群。何人かこれを想うて戦かないものがあらうか。
なにやら後半の労働のところなんて、働き疲れたシモーヌ・ヴェイユかよ、みたいな。つーか、これを現代って、2012年(だっけ?)の現代のことと言っても通用しそうなところが、人類のあんまり急激に進歩しないところよ。工場労働に疲れ、憂さ晴らしにパチンコに行く労働者の群れよってもんよ。いきなり「神類」なんかになれんのよなぁ(って、「神類」は北一輝の話で、またいずれ)。
まあそんで、俺も暗い疲労に沈んでいるので、そろそろ眠いから端折ると、安岡は内面的な人格主義と、団体生活者としてのそれを切り離して、団体生活者としてのそれは「天子といふ最高の真我」を「至尊と仰ぐ」ことによればいいという、ダブルスタンダードに至る。
そんで、行き着くところは「錦旗革命論」。乱れた世を正すための革命があるとすれば、天皇そのものがその革命の主体でなくてはならんという原理主義。これがなにを意味するかというと、左翼はもちろんのこと、錦の御旗を立てて日本の変革、革命を目指す革新派右翼をも否定することになる。それゆえ、同時代の革命家にとっては最悪の思想家とされるわけだ。
が、一方で、こういう穏健思想の方が権力には受け入れられる。それに、若くして時代のトップ・エリートたちに先生と仰がれるカリズマティックもあったのだろう。彼の思想の根幹は、師と弟子が出会い、人格を磨き、精神を立派にしていくことで、それによって自然に世はおさまるという、平らに成るというところにあった。wikipedia:金鶏学院の設立趣意書にこうあるという。
天下久しく本を棄てて末に従へり。是の故に法度備はれども生民憔悴し、智術盛なれども風教頽廃せり。夫れ君子は本を務む。本立つて道生ず。而て治国の本を務む。而て本は教学に在り。教学の要は人格の切磋琢磨に存す。
安岡は具体的、直接的、制度的に国を変革してやろうみたいには考えなかった。直接テロに走ったりしなかった。そのうえ、敗戦でポシャらなかった。それどころか、これだ。
終戦時、昭和天皇自身によるラジオ放送の終戦の詔書発表(玉音放送)に加筆し原稿を完成させたことから皇室からも厚い信頼を受けていた。
wikipedia:安岡正篤
そんで、戦後は公職追放されるけれども、政界、財界の大物のさらに指南役として存在し続けたわけだ、「昭和最大の黒幕」として。時代時代の総理大臣級を教育、指南していって……。で、著者はこんなことを言う。
それにしても、下からの革命の不可能性など問いたりして、安岡は自分で自分のものの考え方を退屈だとは思わなかったのだろうか。いや、恐らく彼は大いに面白くスリリングであると思っていたに違いない。なぜならば、安岡という人の思想というか野心の肝腎なところは、恐らく活字にはなっていないからである。
そう、活字にしてしまっては「不敬」の二文字を免れない野心……!
この著者の想像、推測は、なんかすげえゾクゾクするというか、思わず唸ってしまう。本書いちばんの唸りどころなので、ぜひ呼んで欲しい。でもって、なんか右翼でも左翼でも革命家とかいうと、パッと命を散らせてナンボ、あいつは死んだから本物だ、みたいなところはあると思うが、もし、それを安岡がべつの形で淡々とやりきろうとしてたんなら、それはそれですげえなって。こう、まさに戦かずにはいられようかと。ここまでくると、たとえば今朝読んだ湯浅誠さんの体験談なんか吹っ飛ぶくらいのスケール別に湯浅さんをくさすつもりは毛頭ないですが。なんちゅうのか、かけた時間と規模みたいな。いや、ぜんぜん別の次元の話だと思うておりますよってって、なにに対して弁明してんだ俺は。だとか、まあそんなふうに感じてしまうわけではある。
とはいえ、安岡自身の一番のスリリングなところが「活字になっていない」のならばぜんぜん興味ないし、まあ細木数子の占い本でも読んでいたほうが面白いやもしれず、俺の意識はまたべつのところにふらふらといくのである。もっと不穏な方へと。とはいえ、この本についてはそういう意味でほかにもメモしておきたいところがあるので、また続くかも。では、おやすみ。