人生の素晴らしさ、生きる尊さ、自分の大切さ

「まっとうに、前向きに生きる自信があった」と、順調に更生の道のりを歩んでいた被告。しかし、仕事を始めて数カ月がたつと、歯車が狂い始める。
 「重機の操作とか、責任重大な仕事を任されるようになり、ついていけなくなった。普段は来ないような大きさの粗大ごみが持ち込まれると、対処方法が分からず訳の分からない行動をとってしまった」
 被告は今回の事件で逮捕された後、精神鑑定で「アスペルガー障害」と診断された。発達障害の1つで、著しい言葉の遅れや知的障害は見られないが、興味・関心が極端に狭かったり、規則的でない作業を苦手とする特徴がある。
 だが、当時は周囲も被告自身も、アスペルガーの認識はない。父親に相談すると「自分も口べただったが、今では(営業職で)トップセールスになった。お前は病気なんかじゃない」と叱咤(しった)激励され、さらに孤独を深めたという。

特に興味をひかれたのは、大阪・池田小や東京・秋葉原の無差別殺傷事件だったという。
 「大勢を殺して死刑になりたい。投げやりな動機に共感した。彼らの絶望、孤立、えん世観を理解できた」

弁護人「今回の事件で、無期懲役や死刑はない。社会に復帰した後はどうしますか」
被告「全く考えていない。更生してまじめに生きて、何のメリットがあるんだ。ばからしい」
弁護人「なぜ更生意欲がない?」
被告「自分は社会で生きる価値がないクズだから。生まれたのが間違いだったと思っている」

「少年院時代に感じた人生の素晴らしさ、生きる尊さ、自分の大切さ。すべて、幻を見せられただけだった。社会は閉鎖的でシビアで、冷たく退屈だった」


 まったく、俺のようなやつだと思うし、まったく、俺とこいつで何が違うのかわからない。違いがあるとすれば、やったか、やらないか、ただそれだけのようにしか思えない。俺が三十過ぎて自殺もしていなければ、凶行に走っていないのも、たまたまに過ぎない。
 俺はこいつが酒鬼薔薇聖斗や宅間や加藤を「理解できた」という感情を「理解」できる。むろん、その三人もそれぞれまったくべつのやつで、まったくそれぞれの人生と身体があり、パーソナリティーがあって、それぞれまったくべつのことをやったに過ぎない。そもそもそんな目立ったことをしないやつような、そこらへんの人間を「理解」するなんてことすらできるのか。それでも、俺は、こいつが、あいつらを「理解できた」と思うところに共感できる。
 そうか、共感はできるのかもしれない。共感とはそんなものだ。「共に」などと書くが、おおよそ一方的な感情として用いられて、とくだんおかしく思われることもない。もっとも、被害者の苦しみにまったく共感できない点については、完全にキチガイ扱いだろう。それはまったく正しい。
 そりゃあ、俺とこいつとでは違う。生まれた時点でのある種の富のようなもので俺が恵まれていたのかもしれない。そのおかげで、一手先延ばしして逃げる余地があったのかもしれない(次があるかはわからない。おそらくない)。なんらかのディスオーダーという面で、俺のほうがそうとうに軽いのかもしれない。適応力という点で、俺のほうがこずるく立ちまわることができたのかもしれない。行動力という点で、明らかに俺が劣っていたのかもしれない。ただ、そんな差が俺とこいつを隔てる絶対的な差なんてものにはなりえない。面倒くさいからやらないが、俺の日記の過去ログから、この記事のこいつの証言のおおよそは再構成できるんじゃないのか。やったか、やらないかを除けば。
(一応言っておくが、発達障害者全般がとくべつに高い犯罪率があるかどうか知らない。パーソナリティー障害なんかについていえば、犯罪を犯したやつが反社会的パーソナリティーディスオーダーということになるのかもしれないし、このあたり、あまり理解できていないが。あくまで、俺とこいつと、あとはあいつらの話だ)
 こいつがこのまま累犯障害者になるのかどうかわからない。社会復帰後に就いた職場がちょっと違っただけで、こいつはわりとうまい居場所を見つけられた可能性もあった。十分にそう読める。日本の少年院、幻を見せられるなんてわりとよくやってるじゃないか。俺は幻なんて見たことがない。物心ついたころからずっと不安と心配と恐怖ばかりで、人生の素晴らしさ、生きる尊さ、自分の大切さなんて感じたことがない。
 いや、少年院はよくやれていないから、こういう結果になってしまったのか。なにせ、あけすけに言えば脳の欠陥なんだ。少年院になにができる。なんというか、どうしようもないんだ。俺も三十超えてようやく医者にかかってなにかしらそういうことで生きづらく、社会に適応しがたいこと、重機を操作するよりは向いている仕事にありつきながら、いよいよ限界がきて、薬食ってなんとか生きている。なんの蓄えもなく、ねんきん特別便は早く死ねと通告してくる。お前に言われんでもわかってる。でも怖いんだよ。俺は臆病者だから。
 俺が俺の持っている圧倒的な自己否定感、自分は社会で生きる価値がないクズ感を、なんらかの脳の中の欠如がもたらした二次障害だと客観視したところで、それがなんになるのだろうか。なんにもならない。昨日はたまたまついていただけ。明日はどうなるかわからない。ささやかな居場所が続く保証はなく、それが失われたら、待っているのは圧倒的に閉鎖的でシビアな世界だ。薬を何錠も飲んで、朝起きてなぜか何回も部屋の中で転んで、ようやく外に出られる人間、睡眠時無呼吸症候群持ちで、とても車の運転なんかできない人間、高卒で非力の人間、他人とのコミュニケーションが異常な負荷になる人間、これが簡単に居場所を見つけれるほど今の社会は甘くない。経済も脳のいじる技術も十分ではない。
 おまけに、俺も、こいつも、そんなに頭悪くなさそうに見える可能性があって、同情を受けにくい。俺もお白州で同じようなこと口にして、心ある人、大切な家族のある人に、「こんな非人間的な獣は永久に隔離しておけ」とか言われるのだろう。また、山本譲司が世話してきたような知的障害者たちは、そんな言葉を吐くこともなく、また報道されることもなく、向こうに行ってしまうのだろう。
 今日の夕方、近くの印刷屋の営業のおっさんが来て、3月1日に出社してみたら会社が倒産していた、という話をして帰った。帰り道、なんの店か横浜に引っ越してきてからずっと疑問だった店が閉店していた。みんなどこへ行ってしまうのだろうか? いくらパセティックに振る舞っても振る舞いで済まされない。多くは望まない。欠陥品や敗残者にささやかな居場所を。あるいは、完全に脳を破壊して、作り替えてしまう薬を。それが無理なら、せめて刑務所で幻を見たい。一度でいいから、人生の素晴らしさ、生きる尊さ、自分の大切さを感じてみたい。

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