山崎今朝弥―ある社会主義弁護士の人間像 (1972年) (紀伊国屋新書)
- 作者: 森長英三郎
- 出版社/メーカー: 紀伊国屋書店
- 発売日: 1972
- メディア: 新書
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山崎今朝弥君 君姓は山崎 名は今朝弥、米国伯爵は其通称、明治十年逆賊西郷隆盛の兵を西南に挙ぐるや、君之に応じて直ちに信州諏訪に生る。明科を距る僅に八里、実に清和源氏第百八代の孫なり。幼にして既に神童、餓鬼大将より腕白太政大臣に累進し、大に世に憚らる。人民と伍して芋を掘り、車を押し、辛酸を嘗め尽す。傍ら経済の学を明治大学に修め、大に得る処あり。天下嘱望す。不幸、中途試験に合格し官吏となる。久しく海外に遊び、ベースメントユニバーシチーを出で、欧米各国法学博士に任ぜられ、特に米国伯爵を授けらる。誠に稀代の豪傑たり。明治四十年春二月、勢ひに乗じて錦衣帰朝、一躍直ちに天下の平弁護士となる。君資質豪放細心、頗る理財に富み、財産合計百万弗と号す。即業を東京に興し、忽ち田舎に逃亡し、転戦三年、甲信を徇へ、各地を荒し、再び東京に凱旋し、爾来頻りに振るはず、天下泰平会、帝国言訳商会、私立天理裁判所、軽便代議士顧問部、各種演説引受所等は、皆君の発明経営する所にして、事務所は京橋区新肴町一番地(電話京橋三〇四八番)に接地せらる。
……と、山崎今朝弥について書く人はだれでもこれをとりあえず紹介するところからはじめている、と著者の森長英三郎も書いていて、じっさい彼もそうしているのだが、まあまことに名調子だし、そうするわなという感じだ。さらに、ほかの弁護士が立派な身なりの写真を載せる中、この「自伝」の中央に裸体で腕を組んだ写真が載っていたというのだがらえらい話だ。
もう一つ、思想的な面についての「自伝」。
社会的正義の先駆者 山崎今朝弥
共鳴とは何ぞや、動機とは何ぞや、抑抑現状打破の思想とは何ぞや。等小六づかしき理窟はぬきにして、要するに私は矢張り遺伝と性格と境遇と感染によりコンナ人間になったと思ひます。先祖代々謀反者、ヒネクレ者の血を承け、幼に既に反逆を好み、悄々長じてはテロリケロリで復讐を続け、強情意地ッ張り小面憎く、生れ乍らにして赤貧素寒貧、農家に育ちて耕すにものなく、工場で稼いで小遣手に入らず、見下げ果てたる浮世のバカ者、ウツケ者を見るに付け、不平ウッ憤やる瀬なく、世を詛ひ人を茶化することより外なき処へ、先づ初て米国で赤羽、幸徳、岩佐君等と相識り、コイツ少々話せるなと思ふたが病付きで、友人悉く革命家若くは社会運動家と変更し、目は何も知らぬ間に耳は確かく其ウン奥を極め、其後は之を中外に施して決して誤らず過たず、今は只其死期を待つのみと相成候。
とまあこんな感じである。というか、おそらくは中濱鐵などとくらべたらよほどの有名人なので説明も不要かといったところだろうかどうか。しかし、少なくともおれはアナキスト関連の本を読む中で、布施辰治ともによく目にする名だな、ということで知ったわけなのだけれども。
して、本書は布施辰治のもとで修行し、山崎今朝弥とも面識のある弁護士wikipedia:森長英三郎による評伝である。弁護士ゆえといっていいかわからないが、綿密、丁寧に山崎君の人生を追っている。明治大学での成績はかなりのものだったが、少年時代の成績はどうだったのか? 当時あった御柱に関する事件が「テロリケロリ」に符合するんじゃあないのか……などなど。というわけで、上の自伝とさらに二つの自伝に書いてあることがらが検証されていくわけで、これがまた面白い。あの時代に広く社会主義者を弁護し、大逆事件に関わってきた人間を、そのままに正義の弁護士とばかり描くわけでもなく(ただの正義の弁護士は借金取りが来ても真っ裸の四つん這いなって犬の鳴き真似をして追い返したりしないと思うし、あまりに奇人すぎて描きようがないが……)、また、逆によくあるお笑い畸人伝のように描くわけでもなく(当然のことながら、あの時代にそんなことをするのは命がけといってもよく「エライ」のだし……)、けれど、晩年最後は少し物悲しく著者の思いもほろ苦い。評伝の名作といっていい。
で、あまりネタバレしてももうしわけないが、米国伯爵という皮肉はもちろん、「博士」というのは「ヒロシ」だといい、アメリカの「ベースメントユニバーシチー」ってのもスクールボーイの皿洗い(住み込みで家事手伝いなどしながら学校に通う立場から)のことじゃないかとか(そのままだと地下大学みたいな感じだけど)とか、清和源氏はわからぬが、山崎家はなかなか一族揃ってユーモラスであったとか……などなど。
ちなみに、米国での岩佐作太郎とのエピソードとしては、山崎が小鍋のぬるま湯で玉袋を洗った水を、さらに沸騰させて飲んでいたので「きたないまねはよせ」と言ったら、「煮沸して消毒したから清浄な水だ」とやり返したとか。ちなみに、この件は築比地仲助という人が詩にしていたらしく、後年著者が岩佐にあれは嘘であろうと聞くと「岩佐は本当だといい、疑う私の方がおかしいといった顔つきをされたことがある」そうだ。……なんじゃそりゃ。でも、裁判所の控え室でも素っ裸で寝ていたり、西條八十も「段々寒くなると、先生はニギリキンをするやうだった」と書き残しているらしいし。
と、なんかわけのわからない方に行ってしまった。ちなみに、名刺は岩佐作太郎に刷らせて、幸徳秋水が平民新聞に載せて紹介文を書いたものらしい。未婚者アンド未婚者。ちなみにのちに結婚するが一度目の妻はすぐに亡くなる。再婚して子供をもうけ、何人産んでも名前に困らないように、長男に「長男」、長女に「長女」、続いて「次男」、「三男」などつけようと思っていたらしいが、不幸にも長男と長女ともに生まれてすぐに亡くなったため、そののちは普通に? 名付けた。
弁護士としての先駆者
弁護士・山崎今朝弥の先駆性みたいなところにも触れられている。ひとつは足尾銅山鉱毒事件。まだ明治法律学校時代の話だ。自著『辯護士大安賣』から孫引きする。「政治に興味の無い私は、人の騒ぐ憲法問題、人道問題、政治問題に気乗りがせず、之を法律問題として、被害民を原告とし訴訟費用の救助を受けて、足尾銅山の営業主古河王を被告とし、特に注意を要する除害工事の設備不完全、即ち工事に対する相当注意の不足を理由とし不法行為を原因として、損害賠償の訴訟を起したら面白からふと提唱した。処がこんな突飛乱暴の議論は書生の議論だとて誰一人耳を傾けて呉れる者はなかった。先生の講師に質疑しても相手にはせず、どの雑誌に投じても申合せをしたかの如く没書となった」
これについて著者は、今(といっても、この本出たの1972年だわ)では当たり前の訴訟が70年前に山崎が考えたように行われているのだから、先覚者であると。ただ、一方で、政府にとっては訴訟よりも騒擾の方が厄介なのであって、その点で山崎が(まだ)大衆運動についての理解がなかったとも述べている。
もう一つは、法に定められていないガス代値上げについて一市民として原告になった訴訟。結果的に敗訴したが住民訴訟の元祖といえるものらしい。ちなみに、これは市議会議員と東京瓦斯の汚職が明るみに出て目的は達せられたらしい。ついでに、これに祝意を評して、正力松太郎を訴えていたのを取り下げている。
同時代人らと
さて、おれがここのところ読んでいる人たちとの関わりはとうぜんたくさん出てくる。といっても、堺利彦、幸徳秋水の世代はじつのところまだよく知らない。大杉栄以後ちょっとくらいだ。それでも、だいたいの裁判に関わっている。で、たとえば和田久太郎は布施辰治の大雄弁をほめつつも、こう述べる。
僕は伯爵の弁論が大いに気に入った。一寸聞くと、水の中で屁を垂れる様な事を言ってゐる様だが、実に味がある。
それで、布施さんのは左団次の丸橋忠弥、山崎さんのは松助の家主長兵衛(髪結新三)とか言われてもまったくわからないが、布施弁護士と山崎弁護士の個性の違いをよく描いているという。筆写曰く、布施はなんであれ裁判所と司法への信頼があったが、山崎は裁判所も所詮は資本家のもの、政府のものと見なし、愚弄し、攻撃する方へ向かったのだろうという。しかしまあ「水の中で屁を垂れるような」とはすごい例えだが、久さんと伯爵は馬が合いそうな気はする。もちろん、付き合いも長いはずだが。
が、一方、同じ裁判で古田大次郎はわりと伯爵の弁論に不満であり、「いい仏教者にでもなれる」とか言われたことに動揺したり、本当の自分をわかってくれていないとか書いている。というか、どっちも読んだが、なるほど伯爵の人となりをある程度知った今となっては、古田君とはそりが合わなそうだ。
で、大さんといえば鐵君だが、こちらの弁護もしている。が、やはり中濱鐵も死を望んでおり、上告を断って山崎宛にはがきを送っている。歌を一部抜粋。
弥生空魏櫓枕(ギロチン)高く霞み往く黒蝶ぞ我れ散る花に舞う
ちなみに、別の本からの引用だが、布施弁護士宛の歌はこうだ。
菊一輪ギロチンの上に微笑みし黒き香りを遥かに偲びて
また、金子文子の山崎宛の手紙も残っている。金子文子の本を読んだのは何ヶ月前のことか、久々に気の強い彼女に再会したような気になった。
とんとご無沙汰致しとります。どうやら少しは涼しふなったやうですが、如何? 私は相変わらずピンピンやって居ります。
折角拾って戴いた正月も何時の間にやら来て行って了いました。今日はもう二十二日。決算期は近づいているし、さて、何をどう弾き入れるべきかと算盤を片手にちょいと冗談いって居ます。二十二年の生―苦しみ―失敗。プラス、マイナス、イクォール、ゼロの、而し其の苦しみを越えて失敗を越えて、ゼロの中にも自分の求むる何かを掴み得たと云ふやうな気もするのです。少しでも掴まふとして居た、掴まうとして居る事は事実です。(中略)では、左様なら。お大事になさいまし。一月二十二日朝 起床前
柏布団にくるまったまま 婦み子ペン執れば今更のごと胸に迫る 我が来し方の悲しみのかずかず
炊(すいじ)場の汽笛は吠えぬ冬空に 喘息病みの咽喉の如くに。
いちがやにて 金子婦美 一月二十二日
諧謔家の山崎に対して諧謔の手紙を書いているが、とあるが、それよりも「金子文子」なのか「金子ふみ子」なのかとか思っていたら、「婦み子」と「婦美」まで出てきて困る。が、このあたりは戸籍なく生まれてきたあたりの、ある種の矜持なのか? いまのところおれにはわからない。
ちなみに、山崎は死を望む和田も古田も中濱も金子も朴もなんとか減刑させようとしたし、金子と朴には確信犯にとっては屈辱的な精神鑑定の要求までしている(これには布施も賛同した)。
ちなみに、関東大震災戒厳令下でのこと、とくに子供にまで手をかけたことに怒るは久さんと変わらぬ。
「僕の独り子で、もし僕と共に之を殺しでもする者があれば、少しでも之に関係あるその者の九族は、その老幼たると男女たるとを問はず、立ち所に之を亡ぼして見せる」
やがて悲しき……
ところで、「社会主義弁護士」と副題にあるが、社会主義といってもどの系統? みたいな話になる。幸徳秋水は明治四十年ごろ手紙でこう語りかけている。君の所謂社会主義は如何なる程度の者か知らぬが、兎に角ソーシャリストと名乗って出たのは非常に嬉しい。願わくは今一歩進んでAnarchist Communistと名乗るやうになって貰ひたい。
とかいって、「The Conquest of Bread by Kropotokin」の英版が五円七十銭、米版が二円ほどで丸善で買えるとか進めてたりする。でも、あくまで山崎は統一戦線……というとものものしいけれども、ともかく一番広いところで団結しなきゃ駄目だろみたいなところで一貫していて、それを通した。本人がいかにアナーキーな人格でも、アナーキストではなかった。アナもボルも連帯せよと。それで、決して組織の主役にはならなかったが、幅広い運動や団体づくりに尽力はしていった。が、どうしても左翼というか、人間の団体というか、そういうものは四分五裂していく。そして、山崎の事務所に所属していた徳田球一(!)からも絶縁状が届く。
「極めて端的に先生への弁護依頼の可否の件を申し上げます。法廷委員会は全員一致、大衆党を初めとして、所謂合法無産政党の幹部を一切断ることにしました。それは個人個人に如何なる理由があろうとも、それらの諸党が既に我が共産党に反対し、党員の諸行動を誹謗している以上、その否定の決定は正しくプロレタリア的だと信じます。で先生との私的関係はとも角としても、公的には―即ちプロレタリア政治的には一切関係なきものと心得られたく願ひます。」
これまで山崎は大衆党に属しながらも、共産党も仲間、社会民衆党も仲間、アナキストも仲間と思ってきたのであったが、その一角が崩れた。社会主義運動における山崎の存在意義は、この時点で消滅したといってよいのかもしれない。敵階級を憎むよりも、仲間同志でより多く憎みあうといった分裂抗争の時代には、山崎のような人間は存在する余地はなくなったのである。山崎は徳田からの三行半を読んで淋しかったに違いない。
山崎は最初の(布施よりもちょっと早い)社会主義の弁護士であった。ただ、もう時代も変わってしまった。そして、時代は第二次世界大戦を迎え、戦後が訪れる。山崎ももう歳だが、しかし、生きて食わねばならぬと働き続ける。このあたりの描写と、古希を祝う会のあたりの描写は泣けるものがある。そして京急電車にぶつかった(?)後遺症が元で亡くなる。享年七十八。
まこと、こんな弁護士は二度と現れないであろう。豪快なエピソードと諧謔をきわめた文章、それも法廷で繰り広げるのだからたまらない。だが、一方で、おれはこんな一文が気になった。大正十二年「労働週報」休刊報告号より。
「僕はこれまで、気兼と遠慮と妥協で一生を暮らしてきた。従って人間が卑怯で卑屈でカラ意気地がなく、イツモ頭から胸から腹の中まで気がツマって、甚だしく衛生上害があった。もう余生も余りないのに、余りバカバカしいと考へたら、これからは構ふ事はない、仕たい事をして言ひたい事を言ひたいと思ふ」
アナ・ボル団結調停失敗の結果書かれたものであり、それは気が沈んでいたときに書かれたものではあろう。表現だっていつも大袈裟だし、反語や皮肉、いろいろのレトリックを駆使する。けれども、どうもこの前半、どうにもこの大畸人にて英雄的人物の、何かしら腹の奥底から漏れでた本音のようであり、ひどく興味深く思える。ますます知りたくなってきた、といえる。おしまい。
晩年の写真
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