できて当たり前、できないものはできない。

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少し前に、子供を褒める場合、才能を褒めた子より努力を褒めた子の方が伸びるとかいう記事を読んだ。なに、半年に一回、あるいは3ヶ月に一回くらいは出てくるライフハック系の記事だ、あえて探しはしないが。

ともかく、合点がいった。なにせおれは伸びない方の育てられ方をした子だった。伸びないまま、底辺の大人になった。いまさら親が悪いだのなんだのとはいかないが、そういう仕組はあるのだろうな、と思う。

おれにはできて当たり前。逆に……できないものは早生まれだから、背が小さいから、できなくて当たり前、できないものはできない。努力? というものはおれの辞書にない。かといって与えられた才能だけでこの世を生きるほど、この世の難易度は低くない。そういうものだ。

思い返せば、おれには努力というものが欠けている。欠けているというか、それがいったいどういうものなのかてんでわからない。最初からできるか、できないと瞬時に悟って勝負を放る、その二択だ。

「それがいったいどういうものなのかてんでわからない」ものがもうひとつある。自己肯定とか、成功体験とかいうものだ。これがまるでわからない。物心ついてから、そういうものを持ったことがあったろうか。なにかに自信をもったことがあったろうか。だれかに勝ったことがあったろうか。努力の末に手にした果実、そんなものがあったろうか。まったく見当がつかない。おれは人生でなにか讃えられたり、褒められたりしたことがあったろうか。……せいぜい、馬券で勝ったときの、いっときの全能感くらいのものだろう。

なまじっか、できる分野についてはできすぎたのかもしれない。そして、できない分野に関してはできなさすぎたのかもしれない。その上で、前者を努力によって確固たる自信に変えることもなかったし、後者を努力によって克服したりもしなかった。そしてできあがったのが、自己肯定感のぶっ壊れた能なし一匹というわけだ。ライフハック記事も正しいことを書く。いや、おれが間違っていて、ライフハック記事はつねに正しい。そういうものだ。

もう、今更の気づきだ。気づいたときにはもう遅い。脳みそがそういうふうにできあがっちまってる。おれは永遠に充足するということを知らないだろうし、自分に自信を持つということもないだろう。いや、空虚な自信のまがい物を身につけて、安酒を飲んで管を巻いてる、そんなところだ。

まあ、こんな心の仕組みはずっと知っていた。今更の気づきというのも大嘘だ。

求められない人間のつくられかた - 関内関外日記

もう、どうにもならない。プリントアウトしてはいないが、精神科に行っても無駄だった。性格というのか、気質というのか、パーソナリティというのかわからぬが、それは薬では変えられない。ひょっとするとセロトニンドーパミンの再取り込みを阻害する薬なら変わるかもしれないが、おれには処方されない(双極性障害なので)からわからない。ともかく、おれは人生に失敗した、失敗した、失敗した。

なので、子を持つ、あるいはこれから持つであろう裕福で幸福な方々に言いたい。我が子の努力を褒めなさい、と。こいつはたぶん間違いじゃない。努力によって成し遂げることの重要さ、成し遂げてこの地獄のような世界を勝ち抜き、天国に至るにはそうするしかない。百万の、一千万の、おれのようなクズ人間の上にふんぞり返って高笑いするにはそうするしかない。戦いの舞台に上り、戦い、勝つしかない。失敗したら、また立ち上がって、戦い、勝つ。勝つまでやめない。努力というものが身についていれば、それは簡単なことだろう。おれには想像がつかないが。

なに、無責任だと? 知った話か。おれはもう投げたのだ。一手差の作りをする気もない。全部ぶん投げちまって、新しいもの、強いもの、美しいものの下でヘラヘラ笑って、心臓が止まるのを待ってるだけなんだ。せめて清く正しくありたいとすら思わない。おれは負け犬。負け犬がキャンキャン吠えてる、いくらかは反面教師になる。もしそうであれば、少しは悪くない。声帯を除去されないかぎりは吠え続けてやろう。狂犬病の牙でだれかに噛み付くよりはマシだろう?