真面目と不真面目を分かつものはなんなんだろうな?

おれは真面目と不真面目でいえば圧倒的に不真面目だ。美徳と醜悪でいえば後者だし、真と偽でいえば偽だろう。努力と怠惰であれば怠惰。善と悪でいえば悪にきまっている。おれは人生に真面目に向き合ったことがなく、未だに向き合えず、気づいたら後戻りもやり直しもできない年齢になってしまった。いったどうしてこうなったのか。慢心、環境の違い……。

まずはそういう精神構造を形成しやすい遺伝子を引き継いで生まれてきてしまったという要素もあるだろう。こればかりは仕方ない。生まれで決まる部分というものは、何事にもいくらか含まれてしまっている。全てではない、しかし、ゼロでもない。

育ち、という点ではどうだろうか。親の影響。これもある。おれの父は団塊世代の早稲田で旗振ってた人間であり、宝島系の人間であった。いわゆる、ふつうの大人というのにはあまりにずれていた。他人として世間話だの本の話だのするには面白い人間だろうが、これが親であるというのは不幸であった。人格破綻者。本人がこの世を生きるのもなにかの間違いだし、それが子供をつくるのも間違っていた。

おれはそんな親から世の中を舐めきって生きる教えを受けて育ったといえる。小学校に入る子供に「学校の教師など馬鹿ばかりだから言うことを聞くことはない」というのである。おれはおそらくそれはかなりの部分で正しいというか、学校という監獄自体が不幸製造所にしか思えないのだが、そう思ってしまうのも親の影響だろうか。

親、親、といって母親といえばどうかといえば、母系のほうもどこかタガの外れたブラックユーモアを愛する人々が多く、父のいうことを否定しようともしなかった。

かくして、「道徳」の授業などに鼻白むガキができてしまった。そして、そのまま大きくなり、老いてしまった。部活に打ち込むこともなければ、一生の友どころか一人の友すら維持するこができなかった。努力というものと、それによる成功という体験を一度も味わうこともなかった。

そして、「人生はどうにもならないものだ」という無力感だけで流されるままに生きている。ただ、どうにかしている人間、自分の人生の主人公として生きに生きている人間というものが存在していて、いったいあれはどうなっているのか、さっぱりわからないのだ。「意識高い」といかにも意識高い人間を揶揄する平均的な人ですら、おれからしたらかなり高いところにいる人なのだ。

なんでみんなそんな真面目なんだ。正義感や道徳というものに目覚めたんだ。生まれつきなのか。家庭の教育か? よきメンターに出会ったのか? それとも瞑想して悟りを開いたのか? まったくすごい話だ。まあ、すごいから家庭を築いたり、自家用車を持てたり、家を建てたりできるのだろう。海外旅行とか行ってしまうかもしれない。やはりすごい。

結論としては、ともかく人間、生きやすいことに資する遺伝を持って生まれ、真面目になにかに打ち込むことの重要さに気づき、また努力によって成果を出し、出せずとも糧とし、よき交遊、よきメンターとの出会いに積極的になり、よき学校を出て、福利厚生のしっかりした大企業に勤めることが最低限必要である。

そうでなくては、人間らしく生きているとは思えない、おれのようなクズになるだけだ。おれもどこかでなにかに出会っていれば、酒を飲んでいるか、糊口をしのぐための賃労働をしているかというろくでもない人生を送らずに済んだのだろうか。それとも、もう、生まれたときから決まっていたのだろうか。ともかくおれは一生を棒に振ってしまった。いまさらバットを止めても塁審はアウトのジェスチャーをするだろう。もしも子供を持つ人がいたら、ぜひとも反面教師としてもらいたい。おおよその教師は馬鹿だが、反面教師は役に立つ。

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