人生行き詰まっているおっさんも『すずめの戸締まり』に涙する

※ネタバレしないと感想文書けないので感じなので、ネタバレあります。

横浜ブルク13にあった新海誠監督のサイン

エンドロールが終わり、劇場が明るくなると、後ろの座席から若い女の子たちががギャハハと笑い出したので、「え、今、そんなに笑うようなところあったのか?」と思ったら、「なにこれ、涙腺ガバガバなんだけど!」と照れ隠しに笑い合っていたのだった。

そういうおれも涙腺やばくなっていたので、「おれもおれも!」と言いに行きたいところだったが、自重した。おっさんは涙もろい生きものなのです。

一緒に行ってくれた女の人は「今まで(注:『君の名は。』と『天気の子』)のなかで一番よかった」と言ってパンフレットを買った。女の人はだいたい先にパンフレットを買うのだが、おれが誘った映画などでは気に入った作品のしか買わない。

おれといえば『ほしのこえ』から全部見ている。ひょっとしたら『秒速5センチメートル』よりいいのではないか? とすら思った。しかし、おれは頭のなかで『君の名は。』と『天気の子』が混ざり合ってよくわからなくなっているていどのファンである。ファンなのか?

以下、『すずめの戸締まり』について感じたことをつらつらと書き留める。

  • まずいきなりだが、おれは映画内の緊急地震速報の音にかなりどきどきしていた。おれは3.11を横浜で体感した。被災と呼べるほどのものでもない。それでも、人生で一番大きな地震であり、その後の原発事故報道などにもけっこう精神をえぐられていた。この10年後に書いた日記に、発生当時の日記へのリンクも貼られている。
  • というわけで、おれくらい最大の被害があった場所から距離のあった人間が言うのはすこし憚られるところもあるのだが、実際にこの映画の緊急地震速報の音に心が削られていく感じがしたのは確かなので記しておく。
  • そうやって、心が削られていたところに……、どの場面だろうか。「や、泣きそう」ってなったのは。やはり、すずめが最後の戸締まりをするあたりだろうか。失われた「行ってきます」が次々に流れるあたりだ。
  • そのあたりがピークだったので、すずめと草太の関係などが最後にあってくれたおかげで、「涙腺ガバガバ」状態でエンディングとはならなかった。よかった。
  • すずめは東日本大震災で幼い日に母を失っている。父の存在については触れられていない。それが根底にあって、いつ死んでも構わない、要石になっても構わないというところには、それなりの覚悟というか、諦念のようなものがあったのだろう。
  • 最後になって、押し殺していた「生きたい」という感情を解き放つ。
  • 草太がどんな人生観を持った人間なのかは正直よくわからないのだが、それに呼応するように、「人間の生死なんてのは実にはかないものだけれども、少しでも生きたいと思っているんです、神様」みたいなことを言う。
  • 日本を揺るがす大地震の原因になるようなものを描いていながらも(世界はどうなっているのだろう?)、その実、メッセージ性のようなもの、そんな感じのささやかな話ではないかと思った。
  • ところで、過去に起きてしまった大震災は「閉じ師」が失敗した、負けたということなのだろうか。
  • すずめが過去に「常世」で出会っていたのは、将来の自分であったというのはそういう感じのものかというところ。ただ、将来の自分の言葉をかけられた4歳のすずめは、やはりその将来の自分になるまでその言葉に生かされていたのかどうかというのはいまいちわからない。椅子のこともよく覚えていないようだったし。
  • 心に鍵をかけていた部分もあるが、おおよそうまい具合に叔母と暮らして、友達もいて、やけに健脚だったりするし(映像的に「その距離走れるの?」みたいな)、そのあたりはそのあたりでちゃんと育ったぜ、というところかもしれない。
  • おれはあまりテレビCMというものを見ない。映画のあと家に帰って競馬中継の合間に『すずめの戸締まり』によるマクドナルドのCMを見てはじめて「あ、椅子走ってるのって公開情報だったのか」と知った。
  • 見に行こうと思いつつ、女の人の都合などもあって公開から時間が経ったが、そのあいだ情報を閉ざしていたので、椅子はなかなかの驚きであった。なかなかおもしろいことをするじゃないかと思った。こんなに演技する椅子はたぶん見たことがない。アニメーションとしての動きというか、ちょっと大げさなところもあったけれど(遊園地のところとか)、これは好きだ。あと、わりと椅子で観客の笑いを誘ってもいた。
  • 椅子以外にも、ところどころ笑いどころを挟んでくる。嫌いじゃない。それがないと、ちょっと重すぎたのかもしれない。
  • 重いといえば叔母さんの、突然の恨み言だが、あれはよくわからない。最初、完全にサダイジンに操られて言っているのかと思ったが、そうでもなさそうで、それならそれでなんだったのだろう。神様の気まぐれだろうか。
  • ロードムービーであることも知らなかった。財布も持たずに船に乗れるのかと思ったが、全部スマホで決済していたのか、などと。
  • スマホといえば、ダイジンが行く先々で人々に撮影され、SNSにアップされるところがあったが、あれはなんだったのだろうか。神様みたいなものとしての特性なのだろうか。なにかしらの伏線かとも思ったが(『チェンソーマン』の悪魔みたいに人々の関心を集めることで力が増すとか)、とくにそういうことはなかった。
  • とくにそういうこともなかった、ということにはもうひとつ、すずめが行く先々で「急にお客さんが増えた」状態になっていたように思うが(旅館とスナックだけか)、あれもなにかしらすずめの特性かと思ったがどうなのだろう。ダイジンのほうだろうか。それとも、とくに意図もなかったのか。
  • 行く先々の人は、見ていて不安になるほど親切でいい人たちであった。いい人でない自分などは、不安になるのである。なにか裏があるんじゃないのか、と。杞憂である。しかしそれでも、やはりすずめになんらかの特性があるのか、ダイジンの力などが作用しているのではないかなどと勘ぐってしまうところはある。
  • 「サダイジンは東の要石なの? なんで出てきてついてきたの?」と女の人に問われたが、答えられなかった。
  • というか、草太の祖父の窓の外にいたのがサダイジンだったと、女の人に言われるまで気づかなかった。
  • よくわからないところは少なくない
  • あえてぼかして描いているな、と思ったのは皇居だ。あれ、皇居のお堀だよな。やはり天皇がこの国でいちばんの神様的ななにかということだろうか。神道的な表現があるので、そういうところは匂わせているかと感じた。
  • 草太が「かしこみかしこみ」ってなんか言ってるの、パンフレットに載っていたが、「かけまくもかしこき日不見(ひみず)の神よ」から始まっていた。ひみずといえばモグラみたいなやつであって、東日本大震災の傷跡生々しい場所でロケを行った映画『ヒミズ』を思い出す。

    映画『ヒミズ』感想〜獣臭いラーメンは希望に負けたのか?〜 - 関内関外日記

  •  劇場のスクリーンに映る3.11大震災の廃墟の風景だけでも圧倒されるものがある」とか書いている。あ、監督は園子温だ。まあいいか。というか、染谷将太じゃん。出てるじゃん、『すずめの戸締まり』に。

  • というか、事前情報をまったく知らなかったので、花澤香菜を除いた主要キャラを演じるのがみんな声優じゃないということもわからなかった。神木隆之介がうまいのは知っていたけど、ほかもみな違和感なく。こんだけ非声優で固めてやってみんなうまいというか、違和感がないアニメ映画も珍しいのではないか。
  • とくに、イケメンの人を演じたのがジャニーズ所属のアイドルである松村北斗という人であるのには、知ってから驚いた。「こんなに椅子を熱演した声優はいないよな」とか思っていたので。
  • 深津絵里もアニメ初出演とのことで。しかし、深津絵里といったら1999年の夏休みだよな。なんか新海ワールドに通じるところあるかな。
  • 新海ワールドというと圧倒的な背景が一つにあると思う。しかしなんだろうか、廃墟と相性がいいのかどうかはちょっとわからない。「まだ新しい廃墟」、いや、違うな、なんか廃墟感の薄い廃墟という感じがした。
  • 被災地や常世の業火のあたりはよく描けているかと思った。何様か。
  • 音楽についてはこれといってとくに。押井守の『攻殻機動隊』みたいなやつとか流れたり(なんというのだろう、ああいう音楽)、なんか統一感ないようなところも。
  • とはいえ、スナックやオープンカーでの懐メロは悪くなかった。
  • 芹澤朋也というのはいろいろ詰め込み過ぎなキャラに見えたが、これも実にいい人であって、ちゃんと笑いどころも担ってくれて、後半のいいところを持っていったなと思った。
  • パンフレットをめくっていて、『魔女の宅急便』のような成長物語みたいなことが書かれていたが、果たしてロードをたどって、いろいろな人と出会って、すずめは成長したのだろうか。先に書いたように、ある意味で芯のところが定まっている子という感じもして、だんだんとなにかに気づいていくとか、目覚めていくという過程はあまり感じなかった
  • ただ、決定的に変わるのが、「生きたい」と思う自分を肯定するところであって、そこには草太への思いなんかもあるんだろう。
  • どこでどう草太を決定的に思うようになったのか、というのはちょっとよくわからなかったのだけれど、最初に一目見て運命を感じるというのもありだろう。「きれい」と口に出したのだっけ。……とか思いながら見ていたら、最後の最後で4歳のすずめが常世で草太の姿を目にしてた描写があって、そうかーとなった。けど、考えてみるとべつに「そうかー」でもないような気もする。まあ、運命よな。
  • 運命というか、人の生死も運に過ぎないという現実というものよな。
  • 現実といえば、パンフレットで、「他人に救ってもらう物語となると、まず救ってくれる他人と出会わなければならないわけです。でも本当に自分を救ってくれるような他者が存在するのかどうか、わかりませんよね」とか監督が語っている。でも、誰でも未来や過去の自分自身に出会うことはできる、と。
  • しかしまあ、おれのように人生を失敗してしまった人間は、小学生のころの過去の自分に会っても「おまえはおまえが思うような人生は送れない。一家離散で夜逃げすることになるし、底辺暮らしで精神障害者になって、一年後の自分も想像できない、したくないような生活に陥って抜け出ることがない」と呪いをかけることになる。むろん、将来なりたい自分というものも、もはや存在しない。おれはなにもできない。偶然死んでいないだけだ。死にたいと思うことはこれまで何度でもあったけれど、生きていてよかったと思えることは数少ない。数少ないよかった思い出も鬱の波が攫ってしまう。
  • それでも、今の生活でかまわないから、このまま日常がつづくならばそれでもいいと思っている。そう思っていなかったらとっくに自裁している。
  • そもそも生まれてきたのが間違いであった。人生で最大の失敗だ。
  • その失敗のなれはてが今、いや、今ではなく先に待っている。このままの日常がつづかないことを知っている。そのときおれが主体的になにかを決断して、新しい生活をはじめることができるかといえば、かなりあやしい。
  • 底辺の人生行き詰まってるおっさんであるおれは、今までほとんど主体的に人生を決めたことがなかった。ひたすらに受動的だった。巻き込まれ型の女子高生ならばいろいろな人々や神様みたいなものも救ってくれるだろうが、おれにはその望みは薄い。
  • このような人間の恨みつらみも、目を閉じたすずめには聞こえていたのだろうか。そうであってもいいのだが。それとも、祟り神になるのだろうか。ひょっとして、ミミズっておれのようなもののなれはてなのか? まあ、それはそれで悪くない。
  • 長くなった。
  • 以上。

 

小説を買って読もうとまでは思わない。

 

あ、そうだ、あらゆる情報を遮断してみたいなこと書いたけど、冒頭12分は見たのだった。