夏休みをもらっても大井競馬しか行くところのない男の人生

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夏休みをとれと言われたので取った。そもそも出社したところで電話もならない。この会社も長くない。おれが休んでいる間に無くなっているかもしれない。休むのが無性に怖い。抗不安剤を飲む。

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なにもしないでいると気が狂うので出かけることにする。と、はて、おれには出かけるところなんてあったのかしら。天気のせいにして自転車で遠出することもない。行くところがない。観たい映画もない。買い物に行く金もない。ちょっとスタバで資格試験の勉強を、なんていう話もない(おれはスタバに入ったことがない)。女とは予定が合わなくて一泊旅行なんていう話もない。

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そして、おれは大井競馬場にいた。安い一眼に安い望遠レンズをぶら下げて。

おれは競馬をやめたはずだったような気がする。しかし、そんなことはどうでもいい。ほかに行くべきところがないのだ。パチンコ? 怖くて入れないだろうが。内馬場でビールのフェアをやっていたので、一杯ひっかける。おれが競馬場でアルコールを入れるのは珍しい。300mlで1,000円。信じられるか? ビールはうまかった。あっという間になくなった。とはいえ、もう1,000円出しておかわりすることはなかった。売り子たちはときどき「ドーンペリ、ドンペリドンペリ」のような呼び込みの歌を歌った。そのテンションで夜までもつのか。もつのだろう。若いのだろう。

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しかしまあ、2号スタンドを目に焼き付けることができてよかったのかもしれない。みな、新しくなっていく。知らない馬、知らない騎手。大井の客層は若い。そして、予想していたより多い。前日もMXで観戦していてい「このくらいの空き具合ならいいな」とか思ってたのだが。中央との交流重賞じゃねえんだぜ。まあ、人がいないより悪くはない。

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1レースは京急の中からSPAT4で買った。これが見事すぎる的中だった。ついてパドック、オレハマッテルゼ産駒の牝馬がいて、父の気配を感じる。おれはオレハマッテルゼを生で見たことがあったように思う。まだ条件戦あたりのころに。

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昔話ばかりで嫌になるね。このスターターだって、おれより若く見える。旗の根元に穴が合いていて、そこに手を通すのは中央と一緒かな(競馬博物館で得た知識)。

1レースよりあとは酷い戦いが続いた。おれの買った馬券を見て、ズブの素人には見えないはずだ。むしろ、いいところを突いている。突いているのだけれど得点に繋がらない。予想上手の馬券下手、くらいに思ってくれたらいい。することといえば流れを変えること。人が赤モツと白モツをセットで食っているのを見て、おれも真似をした。売店のおばちゃんが「モツ紅白ね」と言った。年季の入った言い方だ。紅白は縁起がいい。昭和の香りがする。おれはこれを書き残す。しかし、流れは変わらなかったのだが。

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もっとも、おれの馬券のスタンスは撤退戦だ。最初から負け戦のつもりでやっている。そうじゃなきゃ、中断していた時期があったとしても、20年近く競馬をやっていられない。おれが馬券に託すのは一攫千金の夢なんかじゃなくて、いかに最小のダメージでコントロールするかだ。

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負けるのが当たり前。ときどきダメージ・コントロールに成功する。もっとときどき大当たりする。面白みのないやつ。

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馬券の買い方に人生があらわれる。

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物心ついたときからの性根が出てくる。

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おれは最初から白旗あげてんだ。

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咲く花も咲きませんとも。

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買う馬も走りませんとも。

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泡吹いてでも勝負の舞台に立たなきゃいけない……そんな場所から逃げ続けて、おれはここにいる。

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ヴァイスヴァーサにだってこんな顔されちまうさ。……って、メーンの黒潮盃だ。おれが大井に来た理由の一つが、楢崎功祐が有力馬にまたがることになっていたからだ。

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スマイルピース。おれがいま「好きなジョッキーは?」と問われれば「地方なら楢崎功祐と山田信大、中央なら佐藤哲三」と答えるだろう。

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その楢崎が一番人気か二番人気しそうな馬で重賞に出る。おれはたまたま夏休みだ。そういう思いはあった。

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スマイルピースは父プリサイスエンド、母エフケーサクラ、母の父キンググローリアス。おれは内心、スマイルとピースでなぜかプリキュアという単語が頭に浮かんだが、おれはプリキュア方面に詳しくないので見当違いかもしれない。

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ライバルは御神本訓史の乗るドバイエキスプレス。スマイルピースが東京ダービー2着からの参戦なら、こちらはジャパンダートダービー1.2秒差の6着からの参戦。父デュランダル、母の父アフリート。……おれは距離の面からスマイルピースに分がありそうな気がした。そして、うまく行けばヴァイスヴァーサはもちろんのこと、ノーキディング、キットピーク、ツルマルブルース、ワットロンクンあたりの2着があるんじゃないかと思った。ともかくスマイルピースから流す。流したところで中穴くらいを拾えれば……という中途半端な志。おれの中ではドバイエキスプレスがもっと人気してくれればよかったのだが。

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ところで、パドックで見た馬具全部載せみたいな馬。重そうだ。

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そして、ボンネビルレコード。「ボンちゃんかっこいいね!」など声援が飛ぶのを聞いた。

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で、レースの方はというと、おれの本命馬であるところのスマイルピースが力強く抜けだして勝利。ただ、相手がドバイエキスプレスとヴァイスヴァーサと来て、ややダメージをコントロールできました、というくらい。ここで例えば単勝にブチ込むことができていれば、心の底から喜ぶこともできたろうに。それができない。もう、ずっと長いこと知っていることだ。

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まったく。おれはひさびさに1レースから最終までやって、そこそこの痛手を負った。痛い、痛い、まったく。ただ、帰り道にコンビニに寄ってサラダを買うくらいのことはできる。本当の致命傷は負いやしない。負うことすらできない。おれは負けることすらできない。

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敗者の中の敗者、敗者以前の敗者を乗せた帰りの京急。隣に座っていた10くらい年上の人が、なにかの問題集を解いているのを見た。その歳になってもまだ勉強するものがある、向上する目的がある。おれにはなにもない。積み重ねてきたものも、掴み取ろうとするものもない。夏休みをもらっても大井競馬しか行くところのない男だ。行って勝つことはもちろん、敗北すらしない。おれに勝負のときは来ない。おれが勝負しに行かないからだ。おれはおれが死ぬまで貧相な無敗を抱き続けるのだろう。それももう、ずっとわかっていたことだった。わかっていたんだよ。