村上春樹『underground2 約束された場所で』を読む

約束された場所で (underground2)

約束された場所で (underground2)

 もちろん十六歳で教団に入って純粋培養されて……という「人さらい・洗脳」的な捉え方も可能なのだろうが、それよりはむしろ「世間にはこういう人がいてもいいんじゃないか」という考え方のほうに、私の気持ちは傾いてしまうことになる。何もみんながみんな、「現世」の中で肩をすり合わせてひしひしと生きていかなくてはいけないというものではないだろう。世の中の直接の役に立たないようなものごとについて、身を削って真剣に考える人たちが少しくらいはいてもいいはずだ。問題は、こういう人たちを受けとめるための有効なネットが、麻原彰晃率いるオウム真理教団の他には、ほとんど見あたらなかったということにある。そして結果的に見れば、そのネットは、たまたま巨大な悪を含んだものだったということにある。結局のところ、単純な言い方をしてしまえば、楽園などというものはどこにもないのだ。

 おれは二回り年上の女性と付き合っている。彼女は小学生のころ、のちの「大臣」と大げんかをしたことがあるという。また、のちの「大臣」が生徒会長に立候補して、屈辱的に負けたところを見たことある。のちの「大臣」の弟はのちに「次官」になるが、それも彼女の弟の同級生だったという。また、彼女の出身高校からは「死刑囚」が二人出ている。「大臣」と「次官」とは別人である。
 おれは高校生のころエロ本を買うための小さな本屋で『ヴァジュラヤーナ・サッチャ』というムックを見つけて買ったことがある。学校に持って行ってみなで面白がっていたら、女性の新任教師が「仏像に興味があるから貸してくれないか」と言ってきて、貸した。女性の新任教師は世界史の受け持ちだったが、粗野な男子校の生徒たちは若い女性教師なめきっていて、授業中はまともに話を聞いていなかった。おれにとって世界史の時間は「週刊ギャロップ」を読む時間だった。その教師がその後どうなったかよく知らない。
 以上が、おれとおれの女のオウム真理教の関わりである。地下鉄サリン事件が起きたときは「学校が休みにならないかな」と思った。東京から遠い逗子の学校は休みになんかならなかった。学生なんていうのはたいていどんなひどい事件や災害が起きても、学校が休みになるかどうかを気にするだけの存在だ、とおれは思いたい。少なくともおれはそういう学生だった。ちなみにおれは人生に失敗している。
 それに、まだあった。父親である。父親は吉本隆明信者であった。雑誌「試行」の定期購読者であった。吉本隆明オウム事件のさいに、オウムや麻原を仏教的な側面、思想的な側面から捉えなければならないと発言した。これがオウム寄りとして大バッシングの的になった。それについて父親は憤っていたような気がする。憤るまではいかないとしても、吉本が正しいんだ、というようなことは言っていたと思う。おれは、そんなものだろうか、と思ったくらいである。
 さて、『約束された場所で』は村上春樹によるオウム真理教信者、元信者へのインタビューである。冒頭に引用したところに尽きるといったら言い過ぎかもしれないが、作家というある意味「世の中の直接の役に立たないようなものごと」について真剣に向き合っている人間の立場というものがそこにはある。とはいえ、村上春樹は作家というあり方と、出家して尻を探求して人殺しまでしてしまう人間の相違について考える。それは違っている。オウムを擁護するわけにはいかない。とはいえ……といったところだろうか。
 おれはどうだろうか、おれはどんな人間だろうか。おれは精神的な充足さえ得られれば、あとはどうでもいい人間である。そう、中華街の占い師に言われた(http://goldhead.hatenablog.com/entry/2014/10/19/001108)。まっさきに言われた。そうかもしれない。いや、そうだろうな、と思った。
 ただし、おれは金がほしい人間だ。心の底からほしい。大金だ。一生食うに困らぬ大金がほしい。だが、その理由はといえば「現世」の中で肩をすり合わせてひしひしと生きていかなくてはいけないことを、その金によって避けることができるから、というのに尽きる。この世界の片隅で、図書館で借りた本でも読みながら働かずに生きていきたい。人とかかわらずに生きていきたい。そういう意味で、おれは金がほしい。
 とはいえ、おれは金を稼ぐためにひしひしとする気力もなにもない。だからおれは社会の底辺に近いところであがき、精神疾患を抱え、それでも毎日働いて、この今日の土曜日だって朝の5時45分に起きて仕事に出かけたりしている。おれが現世的に金がほしいのなら、そもそも慶應大学を中退して南関競馬ファミスタダビスタニート生活に入ったりしなかったろう。もう十五年も前の話になるが、そうだろう。大学を出ておいた方が安心の企業に勤められる可能性が高い。大きな船に乗れる可能性が高い。レールの上を走れる可能性が高い。それなのにおれはもう全部嫌になってしまって……。
 そこで、精神世界の探求に走らなかったのがオウムの人たちとのわずかな差、だろうか。おれは新しい出会いが苦手だし、新しい環境なんていうものは想像するだけで身震いする。おれは決してヨガの教室(この本を読んで「ヨガにはなにかあるな」と思ってしまったが)に通いはしないし、新興宗教にも古い宗教の団体に出向くこともない。おれは人間が嫌いだし、人間の集団というともっと嫌いなんだ。……ただ、一般企業の人間集団と、出家したオウムの人間集団であれば、後者の方がマシかもしれないなどとは思ってしまうのだけれど。それでもおれは、一人を選びたい。「人間は弱いから群れるのではない、群れるから弱いのだ」とはだれの言葉だったか。
 しかしまあ、この世に楽園はないのか。むなしい話である。河合隼雄との対談が載っていて、そこで河合はこう言う。

河合 人間というのは、いうならば、煩悩をある程度満足させるほうをできるだけ有効化させようという世界を作ってきとるわけです。しかもとくに近代になって、それがずいぶん直接的、能率的になってきてます。直接的、能率的になってくるということは、そういうものに合わない人が増えてくるということですね、どうしても。そういうシステムがいま作られているわけです。だから、そういう「合わない」人たちに対して我々はどう考えていけばいいのか。
 それに対してひとつインパクトを持ちうるのは芸術とか文学とか、そういうもんですね。これは非常に大事なもんですが、それもできない人がいますね。そういう人たちのためにどうするのか。これはむずかしいことです。ただそう考えていきますと、生活保護みたいのがあるんやったら、そういう人たちのために補助金を払うのは当たり前やないかという気がしますね。補助金を上げますから、まあ楽しく生きてくださいと。

村上 なるほど(笑)

 「合わない」うえに「できない」おれにとっては河合の「我々」と、村上の(笑)がやや不愉快になるのだけれど、概ね賛成と言えようか。この無能者の精神疾患者、遺伝のプールの中の使われない予備に金をよこせと。おれがテロルを起こす前に金を払っておいた方が安上がりだと。とはいえ、ベーシックインカムとかそんな話は遠い未来のことである。そして、ジプレキサによって去勢されたおれが静かに自殺するのは近い未来のことである。こないだ月に一度の精神科に行って、「今まで楽しかった時期はいつですか?」と聞かれて「ありませんね」と即答したおれの性根である。おれの性根は腐っていて、実現性のない(笑)の中で朽ち果てる。それが全てなのだ。

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