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中島義道『生きることも死ぬこともイヤ人のための本』を読む

 

生きることも死ぬこともイヤな人のための本

生きることも死ぬこともイヤな人のための本

 

おれは生きることがイヤだが、自殺するのもイヤだ。そんなおれのための題名がついている本である。ちなみに、生きるのも死ぬのも両方嫌がるのは矛盾だ、というのは成り立たないと思っている。

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そしていつもの中島義道節である。

私の考えでは、人生が虚しいことを真剣に探求すること以外はすべて虚しい。p.44

生や死について、もうわかったことを言うような人。生や死について根源的な悩みを抱いているような人を馬鹿にするような人。 おれはそういう人たちのことがさっぱりわからない。よほどの悟りの境地に至ったのか、それとも自分をごまかしているのか、あるいは……言うまい。おれには上の引用文ほどの覚悟というか境地はないが、おれよりけっこう長く生きていて(おれの中では中島義道は実年齢よりもっと若い、という印象がある)、これを真剣に考える人がいるというのは、なんというか、おれが完全な狂人でもないのだな、という気にはさせてくれるのだ。

……トーマス・マンは「よく生きる人は、よく書くことはない」というようなことを語っている。こう言うと、自己陶酔のようであって、いささか心苦しいのだが、私が書くのは、とくに書きつづけるのは、不幸であることを自覚しつづけたいから、不幸という感受性が鈍ることを恐れているからだろうねえ。書くことによって、鈍っていた自分の不幸感を再認識し、マイナスの給油をして、やっと生きていけるとでも言っていいかなあ。p.52

おれも、こう言うと、自己陶酔のようであって、いささか心苦しいのだが、ブログなんていうものに、この身の上の不幸を刻みつけ、腹をかっさばき、内臓を陳列しているのも「マイナスの給油」かもしれない。よく生きれないのなら、せめてよく書きたい。そういう思いはある。

……私たちはいかなる仕方でも時間そのものを表わすことはできない。時間はただ感じることができるだけである。それゆえ、私たちは物理現象の変化や物価変動の変化などを表記しようとするなら、どうしても空間化した時間である「直線」を使わざるをえない。p.170

このあたりはタイトルからちょっとずれる話かもしれないが。が、「時間」というのはおれにとって幼少のころより気になっている一つのテーマである。とはいえ、それをつきつめて時間論(?)の専門分野に突き進むようなことはなかった。とはいえ、興味深いのはたしかだ。

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 「時間ってなに?」

 とは、小学生になるかならないかの私が、祖父の友人に質問したことである。祖父のもとをだれかが訪ねるのは珍しいことだった。「このおじいさんは何でも知ってるから、なんでも聞いてごらんなさい」。祖父は京大出の化学博士で、その友人もどこかの教授かなにかだったのではないか。

 腑に落ちる答えを得た覚えはない。

アウグスティヌスという人はこう語ったという。

 それでは、時間とは何であるか? 誰も私にたずねないなら、私は知っている。もしたずねる人があって、答えようとすると、私は知らない。(今泉三郎・村治能就訳) p.171

禅問答の世界といったらなんだが、これが時間というものの特殊性なのだという。関係ないけど、訳者の後ろの人の名前、なんて読むの?

 まあとくにここにおれの論(そんなものないのだが)を書くわけではないが、最後にまた本の題名に関係あるところを引用しよう。

 次のエピクロスの言葉は、どこまでも真実である。

 それゆえに、死はもろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり死は現に存せず、死が現に存するときには、もはやわれわれは存しないからである。そこで、死は、生きているものにも、すでに死んだものにも、かかわりがない。なぜなら、生きているもののところには、死は現に存しないのであり、他方、死んだものはもはや存しないからである。(出隆・岩崎允胤訳)

関係ないけど、訳者の人の名前なんて読むんだろうねえ。それはそうとして、この「真実」というのはズバッとくるものがあるね。「なにを言ってるんだ、たとえば親類や知人、あるいは全く知らなかった人が死んだりしたら死はそこにあるじゃないか」とか、そんな考えもあるだろうが、あくまで死は個人のものである。個人というか、おれにとっての死はおれのものであってだれのものでもない。だれかの死はそいつのものだ。だから、おれが死に取って代わった瞬間に、死によっておれは無になる。死後の世界? あったらあったでボーナスステージかもしれない。あるいは無間地獄かもしれないが。まあ、そんなことを考えても仕方ない。兜率三關の境地、わからない。

死が恐ろしいのは、「無である」からではない。あとで、「無であった」ことを想起する視点さえも失うからなのだ。p.201

さあ、その視点を手に入れよう。只管打坐、運動の習慣、350gの野菜……。

 

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