斎藤環『世界が土曜の夢なら』を読む

 「ジョジョの第4部は日本の杜王町が舞台で、いろんなヤンキーがたくさん登場するのに、全くといって良いほどヤンキーテイストがない。あれはホント、不思議ですね。意図的にそうしたんですか?」と僕。これに対する荒木の答えは「そうですか? 不思議ですね。なぜなんだろう? というものだった。

 副題「ヤンキーと精神分析」、『世界が土曜の夢なら』。メーンタイトルも、副題も、それ自体はかっこいいのだけれど、内容と微妙にすれ違っているという印象はある。まあ、いずれにせよ、日本のヤンキー論である。著者は「声に出したい」方ではない斎藤先生である。
 おれにとって、本書が「冴えてきたな」という印象を受けたのは後半も後半、最後の方である。中盤の、ヤンキーの世界観は母性的、女性的であるとか、そういうところも面白かったが、最後に面白い課題をぶちまけてきた感がある。

 ならば、そもそも「キャラ」とは何か。
 結論から言おう。それは“人格的同一性を示す記号”である。

 とかそのあたりは、別の本をあたるべきであろう。
 とはいえ、

 以上の理論に基いて、僕なりに簡便な「キャラ立ち」度判定基準を考えてみた。それは「本宮ひろ志の漫画の主人公になりそうな人物か否か」というものだ。これを仮に「本宮ひろ志テスト」と命名しよう。

 というあたりは面白い。ある人物について、本宮ひろ志(あるいは田中圭一でもいいが)の顔でウオーっとなれるのかどうか、想像するのは楽しい。脳内に「天地を喰らう!」というデジタル音声が聞こえてきそうではある。
 あるいは、「ヤンキー先生義家弘介橋下徹のありように日本のヤンキー好きやヤンキー嫌悪、ヤンキーのあり方を見るというあたりも納得できるところはある。とくに橋下徹が今後どのような政治的地位にたどり着くのか(え? 引退?)、そのあたりはまだまだ目が離せないところではあろう。
 とはいえ、最後の方だ。漫画『ワンピース』を「ヤンキーの出てこないもっともヤンキー的な漫画」とするあたりは炯眼と思えるし(とはいえおれは『ワンピース』世代ではないので、ドンキとの相性度でしかそれを感じられないのだが)、冒頭の荒木飛呂彦のテイストとヤンキーのテイストとの乖離なんていうあたりも面白い。
 そしてこれである。

 ここまでヤンキーと古事記の関係にふれてきた以上、丸山眞男の言葉にも耳を傾けないわけにはいかない。それでは丸山は、何を言ったか。かれは古事記を徹底的に読み込んで、「つぎつぎになりゆくいきほひ」の歴史的オプティミズムが日本文化の古層にある、と喝破したのだ。
 なんのこっちゃ、と思っただろうが、これは僕なりに「翻訳」するとこうなる。要するに、「気合とアゲアゲのノリさえあれば、まんなんとかなるべ」というような話だ。これが日本文化のいちばん深い部分でずっと受け継がれてきているということ。

 このあたりの日本文化、日本人論。このあたりがいい。ナンシー関の推算が正しいかどうかわからないが、日本人にはそういうところがある。それを見ようじゃあないか。そのあたりだ。そして、それはまた、「つぎつぎ」にというところから伊勢神宮式年遷宮に連想され、「様式」→「パロディ」→「様式」の形をとるような、オリジナルというものがなく、コピーがオリジナルに常になっていくような連続性、これである。
 そこで、著者が「ヤンキー漫画」の代表として三つ挙げたうちの『カメレオン』などまさにしっくりくる(ちなみにおれにとってのヤンキー漫画とは『カメレオン』であり『湘南純愛組』であり『今日から俺は!!』である)。ヤンキー(漫画)の模倣として、パロディとして、ギャグとしてありながら、しかしそれはヤンキーそのものであるという有り様。これが面白い。横浜銀蠅にしろ、氣志團にせよ、パロディでありながら、コピーでありながら本物であるという不可思議さ。このあたりの日本文化、日本人文化論というものをさらに読んでいきたいと思ったのである。おしまい。
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ヤンキー文化論序説

ヤンキー文化論序説

ヤンキー進化論 (光文社新書)

ヤンキー進化論 (光文社新書)

……まあ、おれはべつにヤンキーにそれほど興味があるわけじゃあないけれど。ただ、いい歳して左耳に三つピアスつけて変な髪の色してるおれのバッド・テイストというものもあるわけで。