このところゆらゆら帝国のベストを聴いている。ベストといっても1998-2004のタイトルどおりである。ゆらゆら帝国は2010年に解散した。
寿司屋があって、その寿司屋の寿司のワサビの具合が絶妙だった。美味い寿司にピリッと効いてくるワサビがいいと思っていた。が、ある日気づいてみると、その寿司屋のネタは一種類、ワサビだけになってしまった。ワサビ寿司しか出さない寿司屋になってしまった。
あるミュージシャンのファンになった。そして、たまにそういうことにはならないだろうか?
これは、あるていど長い期間ファンだったミュージシャンの話になるので、おれが引き合いに出す名前も古いものとなる。それは承知してほしい。あと、ネタがワサビだけのワサビ寿司(ワサビの葉で巻いたものではない)というものが存在した(『美味しんぼ』などで読んだ)ような気がするのだが、検索してもいまいち出てこない。だが、シャリの上にワサビだけ塗りつけられた寿司を想像してくれればそれでいい。この世はイマジナリーだ。
というわけで、おれにとって、ゆらゆら帝国の寿司がうまかったのは、上の期間だったな、と思うのだ。初めて聴いたのは「ミーのカー」だった。なにか、テレビから流れていた。そのころ、インターネットから、という話もなかった。なにか、深夜のテレビで聴いたような気がする。そしておれはCDをすぐに買った。「ミーのカー」に打ちのめされた。そして、アルバムを買って、「ズックにロック」や「午前3時のファズギター」、「グレープフルーツちょうだい」、心底好きになった。むちゃくちゃかっこいいじゃないか。
が、だんだんと、おれのゆらゆら帝国はワサビが効きすぎるようになってしまった。「太陽の白い粉」は好きだった。そのくらいまでだ。そして解散した。最高傑作を作ったので解散したという話だった。解散したあとも坂本慎太郎のアルバムを買った。しかし、おれにとってそれはやはりワサビ寿司だった。
同じようなことはだれに言えようか。たとえばビョークの名前を出そうか。おれはビョークの『Debut』を何回繰り返し聴いただろうか。だが、だんだんとワサビが効きすぎてきた。それは案外早く、『Homogenic』あたりで訪れてしまったかもしれない。おれはこのごろのビョークの曲を知らない。いや、一回聴いて、それでなんとなく放ってしまうようになってしまった。
最初は万人受けする寿司だった。ただ、ピリッと効いているものがあった。そこが琴線に触れた。それがそのミュージシャンの持っている個性、オリジナリティ、コアなのだ。だが、当人がその個性を伸ばしていくと、ワサビ寿司になってしまう。そして、凡庸な舌しか持たぬ客であるおれは、それについていけなくなる。若干癖のあるラーメンだったのが、完全に獣臭いラーメンになってしまうと、さすがにスープを飲み干せない。
しかし、中には変なメニューを出してきたと思ったら、また別方向へ進んだりして、バラエティを保っているな、というミュージシャンもいる。たとえばどうだろう、たとえば、くるり。ライブで「東京」をやれば当然受けるし、「ワールズ・エンド・スーパー・ノヴァ」も盛り上がるが、いきなり「Liberty & Gravity」みたいな得体の知れない曲も出してくるし、「琥珀色の街、上海蟹の朝」でラップを披露したりする。もちろん、「はらの花」もあれば「ロックンロール」、「ワンダーフォーゲル」、「How to Go」……定番商品も色あせない。おれはまだ常連客といっていいだろう。
くるり - 琥珀色の街、上海蟹の朝 / Quruli - Amber Colored City, The Morning of The Shanghai Crab (Japanese ver.)
ベックはどうだろうか。ベックも一時期、おれにとってワサビ寿司になってしまった。あるいは逆に、サビ抜きの寿司になってしまったか(『Midnite Vultures』?)という時期もあった。だが、ベックはベックでありつづけて、『Sea Change』もよく噛めば美味しく、そして『Morning Phase』は傑作だ。続く『Colors』はいまいち刺さらなかったが、また別の味を出してきた。この店も何を出すかわからない。
おれがこの世で一番に贔屓するバンドであるスウェードはどうだろうか。これはまた、微妙なところである。デビューから三作が最高だろうという思いはある。その後、変わった味を出してみたりしたが、元に戻ったが、元に戻ろうとするあまり、元の味のフレッシュさが失われてしまったようにも思える。もちろん、新作は予約しているけどな!
[HD] Suede - Beautiful Ones - Official Promo 1996
ほかにはえーと、たとえばナーヴ・カッツェなどどうだろう。おれは『うわのそら』から入ったが、その後、それより前の味を知り、その後の味を知り、どちらも好きである。そういうケースもある。
おれの音楽聴き始め歴の最初の方に位置するデイト・オブ・バースはどうだろうか。これも、いろいろな味を出し続けてくれたように思う。D.O.Bになってからも好きだ。おれにとっては、少し、ナーヴ・カッツェに似ているかもしれない。
あと、Charaは、チャットモンチーは、ブルーハーツは、Chumbawambaは、電気グルーヴはイエローモンキーは、宇多田ヒカルは、椎名林檎は、遊佐未森は……などとキリがないので終わる。これに最近知ったミュージシャンがどうなるか、あるいは過去どうであり、今どう受け取り、将来どうなるか、など考えたら、ほんとうにキリがない。
いや、なんの話をしていたのだっけ。
そうだ、人はある音楽の中の微妙な違和感を察知して、それに引き寄せられる。しかし、その違和感を生じせしめているところのアーティストのコアが成長していくと、微妙な違和感の心地よさから乖離しはじめて、最後には手の届かないところにいってしまう。もしもそのコアと添い遂げられたら、それ以上にすばらしいことはないだろうが、そうとも限らない。とはいえ、どこかで別れてしまったとしても、過去の曲は色あせないし、べつに嫌う必要などこれっぽっちもない。あるいは、人によっては最初から最新までなにも変わりなくすばらしいものに、勝手にくっついたり離れているだけかもしれない。それは相対的なものでもある。自分がかってに先鋭化と思っているだけなのかもしれない。そして、おれが変幻自在と思っているアーティストを、逆に先鋭化と見ている人もいるかもしれない。そして、そこにはいいもわるいもない。おれは好きな音楽を聴くだけだ。聴きながらへんな踊りを踊っているだけだ。問題などなにもなかった。
以上。