文明の恐怖に直面してなけど『文明の恐怖に直面したら読む本』を読んだ

 

文明の恐怖に直面したら読む本 (ele-king books)

文明の恐怖に直面したら読む本 (ele-king books)

 

文明の恐怖に直面している自覚はないが、『文明の恐怖に直面したら読む本』を読んだ。アナキストの栗原康とフランス文学者の白石嘉治の対談本である。おれは両者のことはあまり存じ上げない。というか、栗原康の本と映画の解説を読んだことがあるだけだ。

で、どんな内容かというと、栗原が米騒動について熱く語ったり、縄文人の話になったり(縄文人の集落はものの取り合いにならないようにある程度の距離をおいていたというが、言われてみればそうだよなと思った)、一遍上人空也の話、それが明治大正期の「サボタージュ」につながっているのではないかという話、それに親鸞の話。おれの愛するブランキの名前も出てくる。……なんというか、おれの興味と重なる話ばかりしているので、「世の中、おれと同じようなものに興味を持って、それを形にする人たちもいるんだな」なんて思った。

一遍は「念仏が念仏をもうすなり」っていうんですが、ようするに念仏をとなえていると、ブツブツブツブツッて、自分の口から、この身体から、人ならざる力、仏がとびだしてくるんですね。それこそ、さっきいった空也像みたいな。なむあみだぶつ。イヨーシ、オレ、仏!

それとなんだ、封建主義というものについて一つ学んだ。

鎌倉時代は「御恩と奉公」というかたちでヒトとヒトとの関係によって組織されている。だから封建主義は契約にもとづいている。法より契約がだいじ、というのが封建主義です。こうした封建主義の特性は、ヒトの支配の必然としてわからなくはない。カミのような超越的なものをみとめない。だから法のような超越的なものもみとめない。あくまで世俗的なヒトとヒトとの契約によって世界を支配していく。

ふーむ、そうだったのか。そして、その契約重視の法軽視は現代のブラック企業みたいなのにつながってんじゃねえか、みたいな話もしている。ルソーは『不平等起源論』で自然の非人称的世界を描き、『社会契約論』で契約から法へ至る道を描きながら、最後に『告白』で解体したとかいう。おれは西洋の思想を読む学がないのでわからないが、そういうものなのだろう。

話は飛んで、大学のはじまり。

当時の学生の歌でいまも残っているものに「ときは去りぬ、されどわれは何ごともなさざりき、ときは再び来たり、されどわれは何ごともなさず」というのがある(笑)。そんことをラテン語で歌っていた(笑)。

いい歌だな。辻潤の「無為無作」だな。

アナーキーについて。

だから「アナーキー」というのは、第一の意味としては「支配がない」ということなねすが、もういっぽうで「無起源」とか「無根拠」ということでもある。つまり無根拠なことをやるのがアナーキーなんです。やることなすこと根拠なし、みたいな(笑)

これはいいよな、大杉栄の「ぼくは精神が好きだ」よな。思うに、PC的圧力の強い左翼の息苦しさというのは、期限や根拠を徹底的に突き詰めて、理屈、理論に行き過ぎてるんだよ。トーンポリシングじゃなくて、それはそんなの、全然自由じゃないし、ともかくつまんねえよ、って思うのだけれど。権力に対して、単に別の権力体制を作ろうとする反権力なんて、なんにもおもしろくねえ。大杉栄をもう一度出せば、「この犬が嫌なのではない、犬自体が嫌なのだ」ってな。

まあ、というわけで、なんかまた言うけど、おれの好きなものの名前がたくさん出てきて、おれというもののなかにもなんらかの一貫性、いや、一貫性というとつまらんが、なにかゆるくてつながりのあるものが存在しているのかな? なんて思ったりした。イヨーシ、以上。

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菊とギロチン

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