本作は東海テレビ開局60周年記念番組「さよならテレビ」(77分)に新たなシーンを加えた待望の映画化である。自らを裸にしていくかのような企画は、取材当初からハレーションを引き起こした。そして、東海地方限定で放送されるやいなや、テーマだけでなく、その挑発的な演出が、異例の大反響を呼んだ。番組を録画したDVDが、まるで密造酒のように全国の映像制作者に出回った。テレビの現場は日々、何に苦悩し、何を恐れ、どんな決断を迫られているのか。果たして、今のテレビにレゾンデートルはあるのか?
テレビの凋落。いや、この映画で取り扱っているのはテレビ報道だ。テレビ報道の凋落。そういったものがあるかないかといえば、あるような気がする。それはいつからだったか。おれにはよくわからない。そもそもテレビ報道というものが大それたものだったのか。もうわからなくなっている。
人によっては、たとえば坂本堤弁護士一家殺人事件でテレビは死んだ、というのかもしれない。あるいは、インターネットというものの普及によって死んだのかもしれない。おれ個人で言えば、酒鬼薔薇事件のとき、犯人の写真と実名がネットで出回ったときに、なにかが変わったと思ったような気がしないでもない(そのとき「反動!」というサイトをやっていた安藤さんは安藤健二としてジャーナリストになった)。
とはいえ、テレビである。テレビ報道である。そこの現場にドキュメンタリーの刃を突き立てたのが、『ヤクザと憲法』の人たちである。身内の東海テレビをえぐってみせた。たまたま東海テレビだったということであって、おそらくは全国のテレビ局をえぐっているものだと思う。もっとも、おれは「東海テレビ」というチャンネルがどのような立ち位置なのかよくわからない。東京を中心としたキー局文化しか知らないからだ。たぶんtvk(テレビ神奈川)とは違うのだろう。ライバルはCBCやメーテレ。そこはピンとこなかったと言っておく。
テレビの報道とはなんであるか。本作では、何度も三原則のようなものが映される。大意では次のようなものであった。
- 事件、事故、政治、災害を伝える
- 弱者を助ける
- 権力を監視する
納得できるような、できなような。おれは常々、強盗殺人だとか、営利目的の誘拐だとかの事件は、そんなに大きく報道する必要はないと思っている。そんなものは、人間の業として当たり前に起こりうることだし、加害者や被害者の為人を詳細に伝えられたところで、べつにどうということもないからだ。どうしようもない、ともいえる。とはいえ、たとえば「8050問題」によって殺人事件が多発している、とか、いじめによって子供の自殺が増えている、となれば社会で考えなければならない問題であり、報じるに値するとも思う。そのあたりの線引は難しい。
災害、これについては速報性や、その後の問題を追うといったことは必要だろう。それこそ、困っている人、弱者に寄り添った報道が必要だろう。
そして、権力を監視する。おれはゆるふわアナーキストなので、権力いうものは必要悪のようなものと思っている。それを誰かが監視していなければ、どうにかなってしまうと思うものである。
そういう意味で、おれはマスコミというものはやはり必要なものであると考えている。ゴミみたいな報道はあるが、「マスゴミ」という言葉はまず使わない(と思う)。誰かが責任を持って(それこそ腕章をして)、これこれこういうことがあったと伝える、ソースとして確かなものを伝える存在は必要なはずだ。もっとも、それが新聞社であるか、テレビ局であるか、あるいはネットニュースであるかは問わない。今のところ、ネットニュースが本当にソースとして信頼できるかは微妙なところだ。だからといって、新聞、テレビは……。そこが問題だ。
して、本作の「出演者」は三人に絞られるといっていい。エンドロールもそうだった。看板的ニュース番組の「顔」を任されたアナウンサー。契約社員として働く、マスメディアについて青臭いとも言える考えを持った記者。おなじく派遣社員として採用された、若くて抜けたところのある若い記者。
アナウンサーは、「お前を全面に打ち出していくぞ」と言われる。が、数字が出ない、数字はシビアだ。大々的に広告を打たれるも、たった一年でお払い箱になる。今、テレビを見ているのは六十代以上だから、キャスターも六十代、ということなってしまう。
若くて抜けたところのある記者は、本当に抜けていた。地下アイドルオタクであるということは別にいいけれど、本当に抜けていて、ちょっとどこかおかしい。劇場でおれのまわりのお客さんがたまたまゲラだったんか、ツボに入ったのか、大笑いしていた。おれも笑った。彼は一年で契約を打ち切られる。報道ステーションの制作会社の契約社員が一気に打ち切られるというニュースがあったと思うが、そういうシビアな世界である。テレビ報道が弱者に寄り添う、助けるといったところで、テレビ局内で弱者切り捨てが平気で行われている。「働き方改革」とかいうやつもそうだ。しかしまあ、この「弱者」でもってこの映画の「笑い」の部分を取ろうという意図があったとは否定できまい。
そして、最後にこのドキュメンタリー自体に疑問を呈する記者。ジャーナリストといってもいいかどうかわからない。そこで、彼が盛大なネタバレを行う。ついでに、別のネタバレも流す。そうだ、このドキュメンタリーとて、テレビ報道的なものであったのだ。
だから、ご用心、なのである。たぶん、見ていて、「ちょっとこれはなんだろう?」という違和感を抱くことがあるだろう。そこだ、その感覚が必要なのだ。だれに? われわれに? たぶんそうだろう。あえて与えてくれたヒントといっていいかもしれない。フェイクとまで言えるかどうかわからないが、不自然なところ、そこだ。そこに気づけるかどうか。いや、気づかなくても、この映画は手の内を明かしてくれる。そのうえで、どうなんだと逆に問いかけられる。大したやり口だ、やってくれる。
そんな中でも一つの答えというか、メディアのありようについて一つの提案となっているシーンがある。アナウンサーが、あえて抜けたところ、弱みを持ったロボットを研究している施設を取材するシーン。アナウンサーは、研究者の「完璧でなく、あえて弱点を見せてもいい。それが自然なのだ」というようなことに、「もっと早くそれを聞きたかった」と言う。難しいニュースがあったら、「私もよくわかってないところがあるんですが」と言ってよかったのだ、と。
正解かどうかわからん。わからんが、ニュースのキャスターが全知全能であって、あらゆる社会問題に精通しているわけでもない。それは当たり前だ。だが、テレビのニュースは、あるいは新聞の記事も、ある事件や事象を完全に理解している、そういった前提で情報を伝えてくる。最初からそうだったのか、いつからそうなったのか、そいつがよくなかったんだ。わかってねえくせに、なんか適当に良さげなこと言ってるんじゃねえか。インターネットはろくでもないいい加減な情報も溢れているが、本当の専門家の直接の声も存在している。専門家のツッコミに対して、テレビ局の報道部はあまりに無力だ。そして、それを知ってしまうと、やはり「さよならテレビ」となってしまう。ただ、ニュースキャスターが「自分もよくわからんのですが」と、冷えたビールでもあおりながら社会問題を伝えるとき、なにかが変わるかもしれない。いや、ビールあおる必要はないかもしれないけれど、本音を見せろよ、という。
と、そんなことを考えさせてくれたこのドキュメンタリーにもご用心、だ。さっき書いたとおりだ。フェイクとも言えないが、作り物でもない。事実ってなんだろう。そんなものがあるのだろうか。これは、すごい毒だ。おれは帰宅後、ネットで「匿名座談会モザイク外れ事件」があったのかどうか調べてしまったほどだ(まあ、本当だったけど)。ただ、必要な毒だ。見られる機会があるのであれば、逃すべきではない。おれは近所にジャック&ベティというすばらしい映画館があるから、これを観ることができた。感謝したい。
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しかしまあ、この監督のなんというか、すっ飛んだ狂気があるよな。