高橋源一郎『今夜はひとりぼっちかい? 日本文学盛衰史 戦後文学編』を読む

 

  でも、内田裕也は黙っている。いつスタートしていいのか、わからないのか。なんだか、はにかんでるようにも見えた。そして、内田裕也は、いきなり、ジョン・レノンの「Power to the People」の冒頭の部分を歌い出す。もちろん英語である。

 「Power to the People……」だ。日本語に訳すると、

 「人民に力を、人民に力を、人民に力を」である。

 わけがわからん。テレビの画面に、巨大な、

 違 和 、

 が生まれた瞬間を、おれは見ていた。

 そして、内田裕也はいった(英語で)。

 「I'd like to tell you something(伝えたいことがあるんだ)」

 

 そして、また内田裕也は英語で歌いはじめた(アカペラで)。エルビス・プレスリーの「Are You Lonesome Tonight?(今夜はひとりかい?)」だ。

 いったい、いままで、政見放送の向こうから、聴衆に向かって、

 今 夜 は ひ と り ぼ っ ち か い ?

 ぼ く が い な く て 寂 し い か い ?

 と話しかけられたことがあったろうか。というか、日本の政治家が、日本の有権者に向かって、日本語じゃなくてわざわざ英語で、話しかけたことがあったろうか。ほんと、あまりに理解を絶している! そして、おれは感動のあまり硬直していた。

「おれ」が感動したのはこの政見放送だ。


内田裕也政見放送「完全版」

 演説が終わると、テレビが発明されて以来、もっとも美しい場面になる。話したいことを話し終わった内田裕也は、画面を(我々を)見つめて、完全な沈黙に入る。おれたちが見つめているのではない。おれたちが内田裕也に見つめられている十数秒が過ぎ、もう一度、内田裕也が、短くはっきりと、

「よろしく」

 といい、それにかぶさるように、アナウンサーの「東京都知事候補 無所属 内田裕也さんの放送でした」という声が流れ、五分五十七秒の異様な放送は終了する。

 

 おれは、まったく動けなくなっていた。その、目の前で、上映(?)されていたものの正体がなになのか、考えようとしていた。ひとことでいうと、

 わ か ら な い !

 でも、

 素 晴 ら し 過 ぎ る !

 そして、「おれ」はこう言うのである。

 それは要するに、ここには、

 文 学 が あ る !

文学とは、なんであろうか。文学部美学美術史学専攻中退のおれにはまったくわからない。でも、おれは、小学生の終わりか、中学生のはじめごろに高橋源一郎の『虹の彼方に』を、そして『さようなら、ギャングたち』読んで、「素 晴 ら し 過 ぎ る !」と思った人間である。とうぜん、内田裕也政見放送にも「素 晴 ら し 過 ぎ る !」と思う。ただ、それが文学なのかどうかはわからない。

違和が、いや、岩が転がるというのはどういうことなのだろうか。「ぼく」は武田泰淳の「戦後文学」を読んだ若者の感想についてこう述べる。

 そして、ぼくは、この「小説」の背景をまったく理解できない若者の「わからない」という読み方こそ、いちばん正確ではないかと思うのである。

 「時代をひたしている大きな感情」の波が去り、そこには、岩が転がっている。それは、いまは、「わからない」ものだ。

 しかし、武田泰淳も、ほんとうは、「わからなかった」のではないか。「わからない」から、とりあえず、当時の流行りの言葉で呼んでみたのではないか。「わからない」からこそ、繰り返し、「革命」と書き、最後には「カ、ク、メ、イ」などと、ただの音にしてしまったのであにか。

 人は「わからない」ものにこそ、決定的に捕まってしまうのではないか。それは、「わかりえある」時代には「わからない」ことかもしれないのだ。

 あるいは「わからなく」なってしまってから、「わかる」こともあるのである。

 そして、話は名作『サイタマノラッパー』(の小説版……おれは小説を読んでいない)に飛び、石坂洋次郎の明るいセックス話だらけの小説に飛ぶ。石坂洋次郎いじりは、あるいは、ちょっとした旧時代の違和に、突っ込みどころに突っ込むだけのように見えるかもしれない。笑いをとる文章に見えるかもしれない。だが、『光る海』に、『青い山脈』に、戦後文学そのものを見るのも嘘じゃないだろう、と思うのだ(もちろん、おれは両作品とも読んだことないが)。

そして、話は(話があるのかどうかわからないが)、3.11に飛ぶ。「タカハシさん」は「時震」にあったという。「時震」はSF小説に使われる言葉、などと書いているが、たしかカート・ヴォネガットの『タイムクエイク』で訳者の浅倉久志が「われながらいい訳」みたいに書いていたように思うが……まあいい。そのときのことを書く。あのときのことは、書ける人間がいくらでも書き残すべきだろうと思う。

タカハシさんは、そういうときに書かれた、加藤典洋さんの「死に神に突き飛ばされる―フクシマ・ダイイチと私」を読む。読んで、次のように考える。加藤さんの「考える」仕事と若干異なる、自らの仕事について。

「考える」というお仕事をする人間の前には、たぶん、次のような選択肢が待っている。

(1)目の前にある、考えるべきなにか、について具体的なことを「考える」

(2)目の前にある、考えるべきなにか、についてなにも「考えない」

(3)目の前にある、考えるべきなにか、について具体的でないことを「考える」

 言うまでもなく、いや、ひょっとしたら違うかもしれないけれど、文学というのは(3)なのではないかな、と言いたいのだ(ろう、とおれは推測する)。おれは、文学というものがあれば、そのようであればいいな、と思う。そしておれも、おれすらも、具体的でないこを「考える」ことができればいいのにな、などと思ってしまうのである。

以上、よろしく。

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