池澤夏樹はSF作家ではない。純文学というものに近いかもしれないし、そうでもないかもしれない。ジャンル分けはよくわからない。とはいえ、『やがてヒトに与えられた時が満ちて……』はSFといえるだろう。解説ではイタロ・カルヴィーノの『レ・コスミコミケ』が同じようなものとして挙げられていたが、そのような感じだろうか。
イタロ・カルヴィーノ『レ・コスミコミケ』を読んだ - 関内関外日記
ともかく、けれん味のないSFである。太陽も影も星も失った、どこかで生きている人類。その過去のなにがあったのか。その先になにがあるのか。この作品でCPUとされているものは、現在書かれているならばAIということになるだろう。いずれにせよ、極限状態の人類の思弁というものがそこにはある。それは、池澤夏樹作品でいえば『夏の朝の成層圏』のようでもあり、その延長上にこのようなSFがあったのだと感じる。
と、同時に、池澤夏樹の根本のところに理系の学びがあり、それが存分に生きているとも思う。これは強いのだ。そこのところがあるかないかでは、ずいぶん違ってくる。詩のような小説だとしても、このようにSFを描けるには、根っこがある。そのように思う。
そして、この文庫本の前半に収めれれている「手紙」たち、「星空とメランコリア」から、こんな文章に感銘を受ける。
「きみたちは淋しいとは一度も言わなかった。見たものの驚異について熱を込めて語り、身体の不具合について淡々と報告し、時には短時間の沈黙もあったけれど、やがてまた連絡を再開して、いい報告を送りつづけた。総量にして百科事典十万冊分の情報だって」池澤夏樹『星空とメランコリア』
— 黄金頭 (@goldhead) 2021年8月5日
この「きみたち」がだれかであるか、わかる人にはすぐわかるだろう。こういう宇宙的な感傷を持つ人間と持たない人間がいる。おれは持つ人間でありたいとは思うが、いささか科学の素養が欠けているようではある。
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