自然は法則によって意思なく運営されている。進化はハナカマキリのような精緻極まる擬態を生み出すし、それはたしかに意図あっての合目的的な彼らの努力の成果と見えがちだが、それを言い出すともう創造主まではあと一歩。科学の側に留まるにはたくさんの変異を繰り出してその一つ一つを環境との適性で検証し、合ったものを残すという、ある意味では非情な科学の理論で説明しなければならない。
それでも残る我々の感情の部分を舘野は「それを束ねている温かなもの」と言ったのだろう。だからぼくたちはファーブルのように、坂上昭一のように、文学に少し文学が混じるのを好ましいことだと思うのだ。
第八章 『昆虫記』と科学の文学性
おれと池澤夏樹、池澤夏樹とおれ。それの歴史はついこの間はじまった。が、この科学エッセイを読んで、「池澤夏樹いいな」と思った。池澤夏樹の小説的には科学が少し混じっている。一方で、科学には文学が少し混じるのがいいという。「博物」的な発想といえるかもしれない。
本書の対象はもちろん科学だが、その対象は多岐にわたる。ウミウシ、日時計、無限、進化、原子力、昆虫、AI、ハルキゲニア……。
博覧強記、とも言い難い語り口である。実際のところ博覧強記の人かもしれないが、軽妙な語り口にそれを忘れさせる。文明、社会についてのある種の意見もあるが、それは意見としてはっきりとわかるように書かれている。そして、文学が混じっている。あるいはその通底にあるといっていいかもしれない。
我々は時間の汽車の座席に後ろ向きに坐っている。運転士に見える光景は乗客に見えない。車窓から見えるのは通り過ぎたところだけ。
それにビッグ・バン理論の成立以来、過去に向かっても無限は否定された。この宇宙には百三十八億年という始点が設定され、それより前はないことになった。我々にできるのは、この世の無常を承知の上で、よく考えて選んだ相手に永遠の愛を誓うことくらいだ。
第三章『無限と永遠』
まあ、ちょっとキザなところはある。澁澤龍彦ならもうちょっと皮肉なことを書くかな、というところだ。しかし、なんというか、稲垣足穂にせよ澁澤にせよ、おれはどこかで「科学する心」を持った書き手を好むところがあるようだ。おれがまったく理系に弱いのに、そこは不思議なところだ。ハードなSFを好むのも不思議だ。
そこは、おれの祖父が京都大学出の化学博士で(なんと今でも検索すると論文が出てくる)、そんなところをちょっとばかし受け継いでいるのかもしれない。おれはハナカマキリの進化論を、半ば「ちょっとできすぎだろう」と思いつつも信じるが、どこかで信じられないところもある。そんなあわいを行ったり来たりしつつ、結局は科学に落ち着く。落ち着きたい。そんなところがある。おれがいつも書いているものに科学的なところがないとしても、そういう感じなので、みなさんご承知ください。以上。