そして三、四年前石牟礼さんの所に週に一度行って手足になってくれと渡辺京二さんに頼まれて、久しぶりに石牟礼さんの周りをうろつくことになった。今度も「おまえヒマそうだな」なのだ。石牟礼さんに会うとやがて「ワガママ、気まぐれ、思いつき大明神」という尊称を久しぶりに思い出した。もちろん内密だ。
「ワガママ、気まぐれ大明神」阿南満昭
石牟礼道子さんの追悼文集を読んだ。本当に身近にいた人から、文学的に接点のあった人、さまざまな人の石牟礼さんが描かれている。おれは石牟礼文学の一部かじっただけだが、歯が立たず、こんな本を読んでみたくもなる。巫女、あるいは神そのもののようであれ、石牟礼道子もまた生きた一人の人間なのだ。
一時間ぐらいして、病室を出ようとしていた時、突然目を覚ました。
「あの……『ピノ』というお菓子があるんですが……。知ってますか? ……次来る時に……買ってきてください。」
「分かりました。年明けに買って持ってきますね」
掛け布団の中がごそごそし始め、石牟礼さんが手を出そうとしている。
「どうしました?」
言葉が出ない。それでも手を出そうとする。
「何か取ってもらいたいものがあるんですか?」
ようやく布団から出てきた手を見ると、小指が一本立っていた。
「ああ、指切りですね」
石牟礼さんがうなずく。思わず噴き出し、指切りして、その手を握りしめた。
「対話」波床敬子
石牟礼さんはお菓子が好きなようだ。それにしたって「ピノ」か。「ピノ」いいよな。パーキンソン病で身体動かなくなっても、「ピノ」食べたくなる。そのあたりの石牟礼道子というものは、ここでしか読めない。いや、わからんけど。
もちろん、盟友でもある渡辺京二や、自分の世界文学全集に『苦海浄土』を入れた池澤夏樹の文章も読める。赤坂憲雄、辺見庸、藤原新也……。だが、おれはもっと身近な、このような話に惹かれた。
こんなことを言うのは気がひけるというか、恐れ多いような気がするのだが、石牟礼道子さんには、どこか自分の「おばあちゃん」のような気がしていた。祖母の力、というようなものだ。なんだかこの本で、そのひととなりを少ししれたようで、なんだか嬉しくなった。
石牟礼道子作品、途中で挫折した本も少なくない。あらためて、またそこに挑んでみようか。一度読んだ本を再読してもいいだろう。挑む、というのもおかしな話だが、まあそうやって長いつきあいになれば、それはそれでいいように思うのだ。