わたしはこの地区で最高の理髪師だ。わたしは長いことそう自負してきたし、地区の住民たちもわたしの腕前を信用していた。わたしはわたしなりに世界一とは言わぬまでも、到達し得るある地点に立っていると思っていた。
そんなわたしに党から出頭命令が出た。わたしに逆らうすべもなかったし、理由もなかった。用件は単純であり、なおかつ最大級の課題であった。「最高指導者の髪を切ってほしい」。
わたしはつかの間恐れおののいた。一方で、自分の腕前をこの国で一番の人間にふるまうという栄誉を欲する心も湧き上がってきた。もとより拒否することはできないのだ。「おまかせください」。わたしは高官にひざまずいて応えた。わたしの自尊心は高まる一方であった。
その日が来た。日々の報道やあらゆるところに飾られている肖像画で見たその人が現れた。思っていたよりの巨躯であった。わたしになんの関心も払わずに椅子に座ると、低い声でこう言った。「かっこよく、たのむよ」。そのとき、最高指導者の顔がにやりと笑ったのかどうか、わたしの記憶にはない。
そして、わたしは我に返った。いや、我を忘れたのか。最高指導者の髪を切る。これがどんなに危険なことかわかっていなかった。まわりを取り囲む親衛隊に、新聞で見たことがある高官たち。その前で髪を切るのだ。わたしは手のふるえを隠すのに必死だった。
「では、はじめさせていただきます」。わたしは櫛で髪をなでつけたあと、いよいよ鋏を手に取った。愛用の鋏がいつもより重く感じられた。まるで初めてのお客さんを相手にするような緊張感で髪を切った。切り落とした。切り落としすぎた。こんなに切ってしまってどうするのか。だが、親衛隊は表情を崩さず、高官たちは愛想笑いを続け、最高指導者は目を閉じていた。
わたしは急いで反対側の髪を同じ程度に落とした。そうしたつもりだった。だが、反対側はさらに切り落としすぎた。これではバランスが取れない。ふたたび最初の地点に戻って少し落とした。
……何分経ったのだろう。あちらを切りすぎ、反対も切りすぎ、剃りすぎ、最高指導者の頭は、まるで黒電話のようになってしまった。わたしは、わたしが高射砲で肉片になってしまう未来が見えた。汗だくになったわたしは、まるで自分に死刑宣告を告げるように言った。「終わりました」。
最高指導者は目を開いた。開いた目で鏡を見た。表情は変わらなかった。まるで幾層もの仮面を被っているように思えた。高官たちのほうに目をやった。「どうかね」。
わたしの心臓は縮み上がった。遺書を書いておくべきだと後悔した。が、どうだろうか。「すばらしい髪形です」と内務大臣。「我が臣民たちもこぞって真似するに違いありません」と党第二書記。「本当にすてきな仕上がりでございます」と女性秘書長。いつしか拍手が始まった。この国では始まった拍手は止まることがない。それを制するように最高指導者が合図するまで。
そしてわたしは、下から二番目の勲章を与えられ、最高指導者専属の理髪師となった。最高指導者についてまわり、つねにその髪形を保つように努力した。わたしには穴を掘るひまもなかった。穴を掘って「最高指導者の髪形は黒電話!」と言う暇など、一瞬もなかったのだ。